クオリア

音楽のための哲学用語辞典


「クオリア」とは現代(20世紀後半以降)では一般に「心の哲学」といわれる分野でよく議論に使われる概念(考え方)である。もともとは「質」という意味をあらわすラテン語由来で、日本語に訳す場合も「感覚質」という語を当てられることが多い。

まず非常にざっくりと説明すれば、クオリアというのは例えば「白いものをみたときの白感」というような「感じ」のことである。我々は例えば、真っ白な紙をみたときにただ白い光の反射を目という感覚器で受容し、脳がそれを「白」であると判断すること以外にも例えば、「何も書かれていないこと」とか「これから何かがかかれるであろうこと」とか様々な要素をうけとることだろう。それらは例えば、物理的な電気信号として脳がうけとると考えるのが現代の生理学、脳科学的には一般的だといえるだろう。しかしそれらはあくまでも「電気信号」なのであって、その紙がもっている「白さ」そのものではない。このとき

「白さ」をあらわす電気信号

「白さ」

というふたつは区別されて考えられていることになる。この後者を我々は「白さ」のクオリアとよぶ。

さて、どうしてこんなものを考える必要があるのだろうか。

それはひとつには、こんなような背景がある。

哲学の歴史では「主体的な認識」あるいは「主観」「精神」といわれるようなものが、基本的に様々な思想の中心的な議題であった。
例えば

ここでも述べているように、
「我思うゆえに、我あり」
というデカルトの考えは、ここ数百年の様々な哲学的な議論のもっとも指導的な原理(批判対象としても)であった。どのような議論にあっても、「自分の意識にあらわれるもの」というのは、もっとも疑いえないもののひとつ、確実なもののひとつであるといえる。これを疑えばほとんどの議論が意味のないものになってしまいかねない。
「わたしが今、白いと感じた」ということは、少なくともほとんど疑い得ない。実際にそれが白くないことはあるかもしれないし、それは本当は過去の感覚かもしれないし、実際「わたしが今、白いと感じた」という「命題」「文章」自体はうたがうことができるかもしれないにしても、わたしが今白いと感じたというその事実自体はうたがうことは難しい。

しかし、20世紀以降我々の主体的な認識、たとえば「白いものを白いと感じる」ということや、その五感、様々な精神的な枠組みが「脳」というものの理解と対応していることがわかってきた。今となっては当たり前のように、人は「脳でものを考えている」「脳で何かを感じている」というようにとらえている。たしかにこれらはかなりの程度で説得力がある。
 我々人間の思考や精神の、物理的な中心に脳があるのはほとんど間違いない。脳がなかったら、このような文を書くこともできないし、「白さ」を感じることも難しいだろう。脳があることが人間が普通前提にするような思考を可能にする必要条件であることはかなり確かな事実として多くの人が受け入れている。

そこで、哲学者や科学者は20世紀後半頃からもう少し踏み込んだいくつかの主張をするようになってきた。
それは、

このような意識の体験はすべて「脳とそれに関連する身体的な器官」に還元される(脳や、その他の体の器官をつかって説明できる)

ということだ。

例えば、足の小指をタンスの角にぶつけて痛い、というのは足の神経から脳に情報がつたわって、脳が「足が痛い」という信号を出している、ということになる。

ここから、
痛みとか、あるいは先ほどの「白さ」のようななものもすべてこの脳や体の中の神経などの電気信号で説明することでき、そして説明できるということだけでなくまさに痛みや白さというのは「電気信号そのもの」であるという主張が生まれた。もう少し強い主張をすれば、この世界には「感覚」と「物体」というものが分かれて存在するのではなく、脳や電気信号も含めた「物理的なもの」しかない、というように主張することもできる。

たしかにこれは、現在われわれが一般的に採用している世界観とそれほど大きなギャップはない。すべてを脳の中で考えている、というように捉えることは多いし、逆に脳やそれに関係する機能が失われた場合「死んでいる」という風に一般に考えられるようにもなった(脳死の概念)

しかし、哲学者は以下のようなものを考えて、この「還元的な考え方」に批判を加えている。

例えば、電気信号も脳の動きもまったく人間と同じような構造をもったロボットを制作する。(あるいは有名な例ではそのような「ゾンビ」を考える)

これらはもちろん、物理的にはそのような脳と電気信号の機能をもった人間と同じ反応をするだろう。

たとえば、食塩をみて、白いと反応するだろうし、食べればしょっぱいと反応するだろう。

そういった意味で、もしすべてを還元的にとらえることができたとしたら、これらのロボットやゾンビは人間と「まったく同じ」であるといえることになる。

しかし、もし「クオリア」といえるものがあったとしたら、それによってわれわれはこのロボットやゾンビと人間を区別することができる。

なぜなら、それらのロボットは白い、という反応をしたとしても「白さ」を感じているわけではないからだ。


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ヤマモトショウ

作詞家です。音楽をつくります。#ロゴススタジオ で作詞について書いてます。「食べる毎日、毎日食べる」では一日一軒食べたお店を紹介します。
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