#ロゴススタジオ ワークショップ第一回まとめ
#ロゴススタジオ 第一回のワークショップが2018/10/24に終了しました。
第一回は「作詞を定義する」というテーマで、
「作詞とは〇〇」というようなところにあてはまるものを考えることで、何が作詞といえるのかということや、その周辺にあるいくつかの大事なテーマを洗い出すことができたと思います。
実際に議題になったことをいくつかあげていきます。
・ある対象が歌詞であるとは?
まず、作詞の前に歌詞であるとはどういうことか、ということの定義を考えていただきました。
この時まず大きくわけて、ふたつの視点が生まれていたと思います。
1、作り手にとっての歌詞
2、聴き手にとっての歌詞
作り手にとっての歌詞としては
「発話されることが前提になっている言葉」「口から発せられる言葉」「歌える言葉」といった定義づけが考えられました。
おそらくもっともポイントになると思われるのは
「歌」と「言葉」がどのように関係しているかということでしょう。語義的にも「歌の詞」が「歌詞」であるので、歌詞というのは歌われるものです。しかしながら「歌うことができる」ということを歌詞であることの条件にするならば、例えばボーカロイドの諸作品などのように「人間には歌うことのできないもの」というものをどう扱うのか、という問題が生じるように思います。逆に、歌うことの主体を人間に限定しない、とするというかなり広い前提を置きなおすことも可能ですが、この場合はたとえば「犬の鳴き声」を歌とするのだろうか、というような問題も生じると思います。
ここからは、議論の外側の話になりますが、
何をもって「歌」であるか、というのはメロディの話にもかかわる問題かと思います。例えばメロディの分解能は、普通大概の音楽状の表記でも32分の1くらいですが、当然それよりも細かいメロディは原理的に可能です。しかし、それらを「歌のメロディ」とはとらえない、というのはひとつの指針になりえるかもしれません。
さらに文字化されていない歌詞、と言う部分も問題になったかと思います。実際にそのようなものはあるようにも思われますが、特に具体例がありませんでした。実際に「書かれているもの」と「話されているもの」の間に例えば「存在論的」なギャップがあるのかどうか、というのはかなり本質的な問題だとは思います。
また、聴き手にとっての歌詞ですが、こちらも
「耳で楽しむ、耳で感じる言葉」といったような定義がでてきたかと思います。また「それそのものでも存在する」という条件があるのではないか、ということもでてきました。
僕自身は作詞の定義をする上で、「聴き手」に関して意図的にさけて考えていた部分もあるのですが、もちろんこれは重要な問題になりえるように思います。
論点としては「物理的に聴こえるかどうか」というところが、どの程度必要なのかというところかと思います。
作詞の定義に関しては、
・dif.1 作詞とは、ある特定の歌のメロディに、ある発声を対応させること、である。その発生される音は、特定の言語と結びついている必要がある
・dif.2 作詞は、特定の作者と必然的に結びついてる
・dif.3 作詞とは音楽的作業である
・dif.4 作詞は、一般に使用されている言語を用いて表現される。
・dif.5 作詞は、新たに語や文を作り出すことである必要はない
・dif.6 作詞は語と、音楽の新たな対応関係を作ることである。
・dif.7 作詞されたものはひとつの作品として整合性をもっている
・dif.8 作詞されたものにはタイトルがつけられる
という8つの文言をまず僕が出しました。みなさんにはこれをつかったりしながら、考えていただきました。
この中で疑問が多かったのはまず
dif.4です。
例えば、英語でかかれた歌詞について「その意味がわかっていなくても」それが歌詞であるということは意識できているのではないか、というような話がありました。これは確かにその通りであるように思います。英語どころか、まったく言語として機能していないような「発声」を歌詞であるととらえることも可能です(文法的にまちがったものを歌詞として捉えられる、というのも例としてあがりました)
この点に関しては、議論の余地は二種類あるように思います。
ひとつは
・それはあくまでも「聴き手」 の論理であり、「作り手」つまり作詞する人は「意味がわかっている」必要がある、ということ
・言語の「意味」とは何か、もう少し厳密に考える必要がある。
という二点です。前者に関しては、作詞をする上でこのような要請をすることは良し悪しは別としてかなりポイントになることだと思います。(実際僕自身はこれを重要なルールとしておいています)
後者に関しては、かなり哲学的な議論になるかと思います。歌詞としてなりたっているのであればむしろそれは「意味をもっている」ということになるというような「意味の使用説」的な論法をとるのか、あるいは「意味というのは対応である」と考えるのであればそのような考えはなりたたないことになります。
dif.2
に関しては、たとえば「はるか昔に、曲がつくことを前提にしないでつくられた文」にメロディをつけたものはどうなるのか、というような問題がでてきました。あるいは「替え歌」に関しても、どのように扱うのか、という点がでてきたと思います。このあたりは具体例や、実際に替え歌をやってみたり、あるいは有名な替え歌を集めるなど、いろいろと今後作業や議論の余地がありそうです。ワークショップでも実際に扱いたいと思います。
dif.1
に関しては、文脈上の問題があるかもしれません。曲先であることが前提されているのではないか、という話がありました。これはそのような意図はないのですが、実際には曲先であれ、詞先であれ、「メロディに言葉を対応させる」という前後関係は実はかわらないのではないかと思います。なぜなら、詞が先にできていたとしても、それを「メロディに対応させる」という作業は結局のところ、確認されなかればいけないことだからです。
その他の定義についてもいくつかの問題が出されたと思います。
・「音楽的作業」とは何か?
・「タイトル」は本当に必要か
など
これらも今後のワークショップを考える上で重要なテーマになってくるかと思います。
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