「歌詞の意味がわからない」の意味がわからない人
最近は大抵の作品に対して誰でもコメントができるのだけど、プロデュースした作品に対して主に動画メディア上で最近こんな感想が多いという話があった。
その人たちは、
「歌詞の意味がわからない」
というのだ。
感覚的には、その感想をコメントした人はこの記事を読む可能性は低いとは思う。
しかしながら、なかなか面白いテーマであるように思うので少し考えてみたい。
0.「「歌詞の意味がわからない」の意味がわからない」の理由
「歌詞の意味がわからない」という感想を、歌詞をつくっている人たちや、割と音楽を(特にJ-POPと言われるもの以外も)積極的に普段から聴く人の観点から見るとおそらく
「「歌詞の意味がわからない」という感想の意味がわからない」
となってしまう気がする。このままでは無限後退(永遠にこの繰り返しになること)になってしまうので、とりあえずはまずなぜ歌詞をつくったり、よく聴く人からすると「「歌詞の意味がわからない」の意味がわからない」になるのかを見てみよう。
おそらくこれはまず端的に
「歌詞に意味がなければいけない」と思ってないから、
あるいは
そもそも「歌詞に意味などない」と思っているから
ではないかと思う。(そしてカッコの外の「意味がわからない」に関しては、「理解できない、あるいは「する必要がない」などの意味で使っているということだろうと思う)
ここには大きく分けて2つの階層的理解がある。
1つ目は、
そもそも音楽の歌詞というのはある種、二次的なものでありその本質はメロディやコード、リズムなどにあるため、歌詞はそれらに合わせてできてくるものだから「文」としてわかりやすいことや、筋が通ってることに主眼が置かれていないという風に考えているということである。
例えば以下の歌詞を考えよう。
上を向いて歩こう 涙がこぼれないように 思い出す春の日 ひとりぼっちの夜 「上を向いて歩こう」坂本九(作詞:永六輔)
誰もが認める名曲であり、この歌詞も大変優れていると思うのだが、一方でこれが日本語の文章としてわかりやすいといえるかは不明だ。「思い出す春の日」とはいったいいつのことで、なんのことなのか、具体的にその「意味」がこの文だけからわかることはないだろう。
しかしながら、このことがこの曲の聽き方に問題を及ぼすとは、ファンをはじめ基本的にこの楽曲のリスナーは誰も思わない。例えばその「春の日」とは、聴く人がそれぞれ想像すれば良いものであると思っているだろう。そしてそれが例えば実はある人にとっては「冬」といえる日だったとしても問題ない。その人にとっての「思い出す春の日」でありさえすればよく、「私にとって3月は冬なので意味がわからない」とか「この国には春という季節はない」とかそういったことはあまり問題にはならないように思われる。
2つ目は、より哲学的な問題と言える。それはそもそも「意味」というのが何を表してるのが、判然としないという点である。
「私はあなたが好きだ」という文章の意味は、私があなたを好きだ、という意味になると「普通」は考えられるが、実際にはこれでは何も説明されていない。例えば、ある考え方によればこのような文章は要素に還元される。つまりこの文章の意味は「私」「は」「あなた」「が」「好き」「だ」のそれぞれの意味から決まるということだ。これはそれなりに説得力がある考え方ではあるが、もちろん問題も多い。
例えば
「「バラ」という花の意味は何か」という問題を考えてみよう。
ここで問題なのは、その色とか花言葉とかそういったことではない。バラという花にどんな意味があるのか、ということだ。別に問題は何でもいいのだ、「椅子」に何の意味があるかとか、「め」というひらがなに何の意味があるか、とかいったような問いでもよい。
椅子だったら「座るものという意味がある」と答えたくなるが、これは「意味」をその「目的」と同一視しており、十分な答えではない。「バラ」に関してはこの答え方はできないことですぐに問題に気付けるだろう。
実際には歌詞に関しても
「意味がわからない」という中には「何のための曲なのかがわからない」という内容を含んでいるものも多いように見える。(つまり、翻ってこれらの発言者が前提としていることは楽曲には「何らかの目的がある」ということである)
「意味」が「目的」ではない、として「バラ」という花の意味を考えてみると、「バラ」という花の意味は、「バラという花であること」以外にはないだろうということがわかる。要素に還元すると、これ以上還元できないような存在者の意味に関して、その意味を問うことがなんらか別の方法で答えられなければいけないということになってしまう。
それらが現実的にはほとんど不可能であるため、そもそも「意味を求める」ということを、やめているということになる。
ここまで
「「歌詞の意味がわからない」の意味がわからない」
の理由を見てきた。
1.「歌詞の意味がわからない」の理由
次にこれを元に
「歌詞の意味がわからない」
について考えてみよう。
まずは、その文章の意味自体をもう少し明確に受け取る必要がある。
おそらくここで言わんとしていることは、次のいくつかの内容だろう。
1.1 文章というのはその意味が明確に1つに決定されなければいけないが、そうなっていないように思える
1.2 歌詞の表している情景が想像できない
1.3 歌詞に使われている単語がわからない
確認しておきたいことは1.3に関しては前述したように「「歌詞の意味がわからない」の意味がわからない人」にとってもかならずしも「わかっている」ものではない。もう一度明文化しておくと「それらに使われている単語」の意味などというものは、簡単に決められるものではなく、それらを「決定」することの不可能さを踏まえた上で、聞いていることになる。
1.2はもう少し事情がやっかいである。この1.2に含まれるのは「ある正解とされる特定の情景が私には浮かばない」という意味と「何の情景も浮かばない」という意味がある。(情景という語を定義していないし、本来であればここは「表象」といいたいところなのだけど、ここはこの語を使いたいと思う。とりあえず「心の中のイメージ」というくらいに思ってくれればよい)
前者に関しては1.3と同様に実際には「「歌詞の意味がわからない」の意味がわからない人」にとっても同じことである。かなり抽象的な表現をすればそれらが似ていることはあるかもしれないが「心の中のイメージ」が他人同士まったく一致していたら、それはちょっと気持ち悪いだろう。また逆に「正解とされる特定の情景などない」といってしまってもよいかもしれない。
後者はもう少し、「「歌詞の意味がわからない」の意味がわからない人」や、特に作詞者作曲者などは気になるものかもしれない。歌詞を聴いても、あるいは見ても何も思い浮かばないとなればそれは歌詞としての何かしら問題があるのではないかということである。
これに関しては、少なくともここまで議論したことからいえるのは「そうかもしれないし、そうでないかもしれない」という程度だ。作詞家としての筆者のスタンスからいえば「何も思い浮かばない」ということを「思ってくれる」歌詞という意味で、そのような歌詞が機能していると考えるが、必ずしもそれが成立するような場面だけでこの問題が起こっているわけではないだろう。(これらは別の問題としていずれ考えたいが、歌詞の定義として「何かを想起させるものである」という内容をおくことはそれほど不自然ではないように思う。この際問題になるのはそのような定義がフェアなものなのかということと同時に、「何も思い浮かばない」というのが、何かを想起したことになるのかという点であろう)
1.1 に関してもほとんど同様である。この文章の前件(文章というのはその意味が明確に1つに決定されなければいけない)はほとんど正しくないだろうことはわかっている(もし全ての文にそれぞれ一つずつしか意味がなかったとしたら、オリジナルな表現というものは基本的存在しなくなってしまう。例えば、有名な逸話として夏目漱石が"I love you"を「月が綺麗ですね」と訳したという話がある(本当のことなのか文献をあたってない)。「月が綺麗だ」という文の意味は、元々は「月が綺麗である」ということだろう。そしてI love youは普通は「あなたを愛している」ということだ。ここで重要なのは「月が綺麗ですね」という漱石の訳には「あなたを愛している」という意味と「月が綺麗である」というどちらの意味も含まれているということだろう。そしてここでの意味はもちろん、その2つだけに限られるわけではない。なぜなら、すでに漱石が「月が綺麗ですね」という訳をした、という事実によってこの文の意味は拡張され、変化しているからだ。それらの変化の可能性は十分に開かれている(今後変化する可能性は大いにある)
(ここで若干問題になりえるのはこの議論の派生として"I love you"に「月が綺麗だ」という意味を含むのか、どうかというような問題はある。これは翻訳可能性の問題、あるいはある文の意味が他の文の意味にどれだけ依存するのかといったような重大な問題を含んでいるように思われる)
2.「歌詞の意味がわからない」という感想を書いてしまう理由
最後に「歌詞の意味がわからない」という感想をわざわざ、書いてしまう理由をいくつか考えておこう。というのも、ここまで考えてくれば「歌詞の意味がわからない」ことは当然のこと、あるいは何か不思議なことではなくよく起こることだし、そもそも
「意味がわかる」ということの意味がよくわからないということが十分明白になってきたからだ。
理由はこんな感じだろうか。
2.1 自分だけが内容がわからないわけではないことを確認したい
2.2 わからないのは、自分ではなく歌詞の側の問題である
2.3 この歌詞の意味がわかるというのは何かがおかしい
2.1は気持ちとしては、多くの人がわからないわけではない理由だろう。物事に対して自分だけがわからないというのは、確かに怖いようにも思えるし、特にある種の集団の中にいるとそういったことが問題になってしまうこともあるのかもしれない。
しかしながら、これはここまで書いてきたことからも断言しておきたいが、「歌詞の意味がわからなかった」という感想を持つことは、まったく問題のあることではない。だから2.3のようなことを思う「必要」もまったくない。(例えば前述の"I love you"を「月が綺麗ですね」と訳した、ということに関しても、この順番で説明されるからなるほどと思うかもしれないが、自分が読んでいた文の中に「月が綺麗ですね」と発話ができてたら、かなりの人が「月について語ったんだろう」と思うように思われる。しかしそのことをもってこれが"I love you"の訳だったということをおかしい、と思うことはもうすでにできないだろう。仮におかしいと思ったとして、それはその人が「おかしい」と思ったとだけのことで実際に「おかしい」わけではないということになる)。中にはここから「意味がわからないものを「良い」という人はおかしいのではないか」というような主張も出てくることがある。これも明確に意味のないことで、良し悪しとわかるわからないは別ものだ。なぜこれらの混同がおこるかというと、それはこのどちらもが本来は「主観的」であるにもかかわらず、後者(意味が「わかるわからない)が「客観的」な指標であるというように誤解されることがあるからである。ここまで見てきたように、意味がわかるわからない、ということは(少なくとも歌詞の世界においては)まったく客観的な内容をもつものではない。だから、それを良いとか悪いとかの「理由にする」ことは難しい(それらはほとんど同次元のものだともいえる)
2.2 の主張は理解できる。たしかに「よく意味がわかりづらい歌詞」というのは存在する(僕もたくさんそういったものをかいているようにも思う)しかし、そもそもこれは「歌詞の意味は理解できなければならない」という前提に基づいていることがここまでの話で明らかないなったわけで、その前提にそれこそ意味がないことももう十分に示されているだろう。
何より、このような書き方が、不要な対立を招いたりするということは避けたい。わかる、わからないはほとんど主観的なものであり、それぞれの心的イメージに委ねられているのにそれが「わかる」「わからない」を議論しても、基本的にはそれはまともな議論にはならない。(だからだいたいただの言い合い、喧嘩になってしまう)
建設的な、あるいは友好的な話をしようと思ったら
「わたしはこの歌詞の意味はこういうことだと思った。理由は〜」
というようなことでしかない。それに対して、同じことを思う人もいれば思わない人もいる。それは決して「わかっていない」わけではなく、「違う」だけなのである。
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