芸術のセンスとは、パターンを読み取ることである。
例えば、音楽を演奏したり創作したりするとき以外でも
「センス」
というものはよく問題になる。例えば、音楽を聴くセンスがいい、センスのいい音楽を聴いている、と言われる人は確かに存在する。つまりはそれを評価する側の視点になってみてもセンスという言葉によって、ある意味で評価されているということである。
たしかに、実際「ああこの人はセンスがいいな」と思うこともあるし、もちろん作り手のことなどを考えてみても「この人はあきらかにセンスがある」と思うことは時折ある。
しかし、このような芸術のセンスといわれるものは、
実際にはいったいなんなのか、というのはなかなか明示しにくいものだ。
そこで、以下ではこういったときにいうところの「センス」とはなんなのかを、
「パターンを認識すること」
という視点から、考えてみることにしたい。
(この後、何度も注意することになるが、センスが「パターン」的に説明できる、ということではないことに注意したい)
さて、センスが「パターンを認識すること」というのはどういうことだろうか。
まずここでは
「作品とは多かれ少なかれ、なんらかのパターンである」
というテーゼを確認する必要がある。
「作品がパターンである」などと書くとかなり多くの反発を受けそうであることはわかる。そのようなパターン「通りでない」ことこそがまさに芸術のあるべき姿ではないか、という考えはたしかに説得的だ。
しかし、ここで主張したいのは実際にはそういった類のことではまったくない。ここでの主張は作品は、少なくともそれが作品である以上はなんらかの意思の元につくられたもの、あるいはそこになんらかの意思を見出せるものであるということだ。
例えば
1,2,3,4,5,6,7,8,9,10
という数列を見れば、これはほとんど誰もが1から順に、1ずつ増えていくような数列であると認識することができる。
これは明らかに意図的なものであり、もしこの次にくる数字は何かといわれた場合、大抵の人は11であると答えるだろう。
このようにして、我々はパターンを認識している。
つまり、何が起こったかといえば、この数列をつくった筆者と(まあつくった、というほどでもないが)、それを読んだ方の、認識するパターンが一致したわけである。
11がくるだろうと分かった人は、そのように筆者がつくった数列を認識できるような「センス」があるということになる。
この例は、まさに数列が「パターン」というべき規則性をもっていることからわかりやすいが、実際の例えば音楽や絵画などに現れるパターンはこれほど単純なものではもちろんない。
しかし、それがある対象によってつくられた構造であるならば、必ずその意匠ともいうべき「パターン」がそこには現れる。これは、たとえば適当にかいた絵画や、適当に音をだしただけのものが芸術たりえないことを示すことにもなる。それがいかに芸術「的」に見えようとも、実際にそれが芸術とはいえない理由としては、そこにそれをつくったもののパターン認識がないからだ。
それでは、自然にできた美しいものなどはどうだろうか。「自然がつくりだす芸術」というような言葉でさされる、自然の造形美などは確かに存在する。これに対するひとつの説明は、制作者というものがいない場合でも、我々の側はその対象からある種のパターンをみてとる、ということである。つまり芸術的なセンスをもちうるものであれば、そこにパターンを見出すことができる。
しかし我々の中には
例えば
1,2,3,4,5,6,7,8,9,10, 100,101,102
というような数列をつくるものもいれば、
1,7,6,301,10000
といった数列をつくるものもいるだろう。
これらには一見、パターンは読み取れないように思う。
しかし例えば、そこにあらたな「解釈」というものを試みさえすれば、それらはその制作者の意図を反映したものになりえるのだ。実はこのようなものの中に、ある種のパターンをよみとる能力があるものこそが(我々が普通は持ち得ないような)芸術をよみとるセンスがある人間である。
(このあたりの議論はウィトゲンシュタイン『哲学探究』も参考になるように思う)
このように、芸術には、それが「形式的」という意味かどうかは別として何らか読み取れる「パターン」が存在していることになり、そしてそれを読み取る能力こそが「センス」ということになる。
実際にはこのようなパターンをあらたに発見することは難しく、さらにはそれがパターンであることが多くの人に広がっていくことはまたさらに別の問題を抱えている。が、しかしまさにそこにパターンがあるからこそ他者とそれを芸術的「作品」として共有できるのである。
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