無人島にたったひとつだけ持っていくなら、への哲学的な答え


無人島にたったひとつだけ持っていくなら、何をもっていくか、

という質問を多くの人が一度は見かけたことがあるように思う。もしかしたら回答したことがあるという人もいるかもしれない。

実際には無人島にいったことがある、という人にすら一回もあったことがないし、ましてやひとつだけしかものを持っていかない、というようなことは想像を絶するシチュエーションなので、これは当然いわゆる想像の問題であるといえるだろう。そのような「想像上の問題を扱うこと」は哲学をつかうものにとっては得意分野であるといえる。その他哲学者が得意としていることには、「問題を複雑にすること」「問題でないものを問題にすること」「問題を増やすこと」などがあり、哲学者自身も大いに問題を抱えていることが多い。

ところで、いったいこの問題はいつ誰が最初に考えたのだろうか。似たようなパターンで、音楽に携わる人なら「無人島に一枚だけCDを持っていくなら」という質問も受けたことがあるかもしれない。CDだけ持って行ってどうするのだろう、という疑問がまず誰でも浮かぶこともさることながら、できればレコードがいいな、とかCDRに圧縮して色々もっていきたいとか、そういうことではなくこの場合は「あなたにとって一番大切なCDはなんですか?一枚しかCDがきけなくなるとしたらどれを選びますか?」という質問の言い換えなのだと思う。それならそう聞けば良さそうなものだが、おそらくは例の「無人島にたったひとつだけ持っていくなら」という有名問題に意識が引っ張られているのだろう。

この問題は「たんに好きなもの」を答えればいいのとは少し違うことを問われているように思う。好きか、嫌いか、というだけでなく必要性や必然性が問われている。例えば僕はかなりコーラが好きで、飲食店でコーラと水が選べたらたぶんコーラを選ぶが、この場合はコーラよりも「水」と答えるだろう。コーラは飲むくらいしか用途がないが、水は他にも色々と使い道がある。
 しかし、実はこれは単に僕が「実はそれほどコーラが好きというわけではないのかもしれない」ということを示している可能性もある。僕が本当にコーラが好きであれば、ただ飲むということだけのためにコーラを選択する可能性もある。そこで、まずこのような理由から、ひとつ選択するためには「一番好きなもの」を決める必要がある、ということが判明する。

 では、「一番好きなもの」とはなんだろうか。一番、というからにはそこには何かしらの順序が決まっていることになる。しかし、あらゆるものをすべていれた順位を決めるのは非常に難しい。例えば、女優の広瀬すずさんが好きだ、ということにしよう。あらゆる女優の中でいちばん好きだ、くらいまでは決められるかもしれない。しかし例えば「2018年11月25日の広瀬すず」と「2018年11月26日の広瀬すず」を明確にどちらが好きか、決められるという人は少ないようにおもう。また、「コーラをもった広瀬すず」と「水をもった広瀬すず」だとどうだろうか。僕がコーラの宣伝担当だったら、ぜひ前者だと思うような気もするが、無人島にいくならやはり前述通り後者だろう。いや、しかしもしかしたら前者は「コーラを1リットルもった広瀬すず」で後者は「水を1ミリリットルだけもった広瀬すず」かもしれない。この場合は話は複雑になっていくる。1ミリリットルの水では、ほとんど何もできないだろう。その場合、数字上どこに順位の境界線が引かれるのかをすべて明確に決めているという人はまれだろうと思う。

 以上から、「好きなもの」を基準にすることは困難であるということが判明した。では必要性、という観点で今度は考えてみよう。

上記の水というのはなかなかいい回答かもしれない。水は人が生きていくにはかかせない。しかしここで、一度問題に立ち返ってみる必要がある。そもそも「無人島にひとつだけ持っていくなら」という問題には別に「持って行ったその人が無人島で長期間生活する」ということはひとつも含まれていない。この質問からはなぜかそんなような気がしてしまうが、「無人島にたったひとつだけものを輸送する仕事をするなら、何を持っていく仕事が良いか」という問題かもしれない。この場合は、軽くて運びやすいもの、あるいは自走するもの、などが好ましいといえるだろう。しかし、こういった回答は本来想定されていたものは異なるように思う。おそらくここでは「無人島でしばらく生活すること」という条件が前提されているように思われるからだ。

 このように哲学者は前提をいくつか設定して問題を解くことがある。これは例えば物理の問題を解くときに「空気抵抗はないものとする」などとするのと同様で、そうしなければそもそも問題としてあまりにも煩雑なものになってしまったり、条件が複雑になりすぎて問題そのものが扱えなくなってしまう、といったことをふせぐ目的がある。
 たとえばこの問題では次のような条件設定も重要である。そもそも無人島にいこうとおもったら、移動手段が必要だ。無人島というくらいだから、我々が住んでいるところとは海を隔ててそれなりに離れているだろうから、船やヘリコプター、飛行機など何かしらの移動手段が必要だろう。泳いでいくにしても道具も何もなしで、というわけにはいかないだろうと思う。この場合、その移動に必要なものは「たったひとつだけ持っていく」の中には含まれない、ということにしなければいけないように思われる。
 また、「無人島」というからにはそこには人がいてはいけないことになる。しかしながら、この問題の回答者はそもそも「無人島にいかなくてはならない」。無人島についてそこで生活をしてしまった時点でそこは無人島ではないのだから、「無人島にものをもっていく」という条件は満たしていないことになってしまう。そこで、ここでは「無人島、ただし問題の回答者の存在はのぞく」という条件を加える必要がある。ただし前述の場合、例えば広瀬すずさんを連れていきたい、という回答者もいるだろうから、この場合は「無人島、ただし問題の回答者と広瀬すずの存在はのぞく」といった条件を加えなければいけない。この場合想定される、「連れていきたい人物」をくわえた条件をすべて追加しておく必要があり、非常に大変だ。ここでは簡単のため「無人島、ただし問題の回答者と、その回答者が選んだものが人だった場合その人物の存在をのぞく」という条件にしておきたい。(しかし例えば回答者あるいは選ばれた人物が妊婦だった場合、どうなるのだろうかといった問題は以前として存在しているように思う)

 それでは、あらためて「水」という答えを考えてみよう。すると、前述したこととも関係があるように今度は「ひとつ」という条件が問題になってくる。例えば500mlのペットボトル一本というのは「ひとつ」といってもいいかもしれないが、「水をひとつ」というのはかなり曖昧な表現になる。「水の分子一つ」だとあまりにも少ないし、世界に存在する水はすべて水というものなのだから、「水をひとつ」といえばその全ての水をさす、というのもまあそれほど無理やりな論理というわけではない。
例えば、ぼくは冬場の今、のどのために龍角散のど飴が手放せないのだが、「龍角散のど飴ひとつ」といったときに、一粒なのか、スティック状のものがひとつなのか、袋が一袋なのか、あるいはコンビニ店ならば箱が一つ届くのかもしれない。このように個数の概念が曖昧なものは難しい。そもそもこれでいえば「コンビニを一つ」でもいいはずなのだ。そうしてしまえば当然水も龍角散のど飴も含まれることになる。さらにいうならば、東京都世田谷区とか、日本とか、地球とかそういった回答も可能であるように思う。この場合「持っていく」という部分にひっかかるのではないか、と思われる方もいるだろう。しかし例えば地面に手を当てて、「持っている」いえば物理的には少なくとも地球に我々が支えているのと「相対的に」地球を私たちが支えていることになるのだから、それほど問題ない。

 このように考えると、このようなひとつという「数」の概念があいまいなもの、物理的対象は除外すべきものであるように思われる。「地球はひとつ」などとそれらしいフレーズをのべることはできるが、無人島というのは普通地球に含まれているので、「部分に対して全体をもっていく」というかなり複雑な事象を定義することも必要になり、かなり厄介だ。
 物理的な対象は、その境界条件が曖昧なため選択できないということになった以上、あと残っているのは例えば概念的な対象である。例えば無人島で生活するなら「勇気」や「我慢強さ」などは不可欠なように思われる。しかしこれらは持とうと思ってもつことができるものなのだろうか。あるいはこれが可能であるなら、例えば「無人島にはいかなかったという事実」などといった回答も可能だろう。「無人島に「無人島にはいかなかったという事実」をもっていく」というのはどういうことか考えてみればわかるように、これは無人島にいくと矛盾してしまうので、結果としては無人島にいけないことになる。いかなければ問題はそもそも発生しないので、これはなかなか良い回答のように思われるかもしれない。しかし、無人島にいかなかったということになれば「無人島に何かを持っていく」という事実自体がなくなったことになってしまい、そもそもの条件が達成されていないことになる。
 こうして考えると、「勇気」とか「無人島にいかなかったという事実」などといった概念的対象、抽象的対象はそもそも「持って行った」ということが明確に判断できない可能性がある。すると、そもそも条件が達成されたのか確認できない可能性が大きくなってしまうため、ここでは避けるべきだろう。

以上から、物理的対象、概念的対象が、可能性から除外されてしまった。あとは何が残っているだろうか。物理的でも概念的でもない対象を考えてみると、それは「非存在的な対象」である。例えば、「ドラゴン」とか「ペガサス」というのは物理的にも存在しないし、それらはそもそも存在しないのだから「概念的な対象」でもない。これならば、上記のような問題は発生しない。
 
よって最終的な回答は「コーラとも水ともいえるような龍角散のど飴をもった広瀬すずというドラゴン」ということになる。

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ヤマモトショウ

作詞家です。音楽をつくります。#ロゴススタジオ で作詞について書いてます。「食べる毎日、毎日食べる」では一日一軒食べたお店を紹介します。

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コメント2件

たぶん、無人島にいくなら、一つだけ持っていくというのはそもそもありえないですよね。
現実見がなさすぎる問いと思います。
そもそも私たちは何かを「持っている」のでしょうか?
持っているとは何なのかという角度からも哲学できそうですね。
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