作詞について考えること、言葉について考えること
というのは基本的にみんなで作詞について、考えるための場として始めている。
作詞というのは、もちろん音楽があってはじめてそれが「作詞」であるといえるようになるものだ(僕がいうところの作詞は、いわゆる「詩」をつくることではなく、音楽作品の中での詩をつくることだと思ってほしい)
が、しかし一方で、作詞というときに行われるのはもっぱら「言葉」について、考えることだ。
さて言葉、あるいは言語
といわれて、多くの人が今この瞬間思い浮かべるものは
「文字としてかかれたもの」と「会話」
ではないだろうか。
これは結構な示唆を含んでいる。つまり、我々が考えなければいけない言葉というものはほとんどの場合文字として書かれているか、発話として表現されている(実際の音声にならないとしても例えば黙読とか、心のなかで発話することはよくあるだろう)
音楽の中での、詞として考えるともちろんそれは
「音声」
をもったもの(例えば、音程とかリズムとか)を意識せざるをえないが、そもそも言葉というものそのものが本質的に
「音やリズム」
を含んだ形で、受容されている。
だから、結局
「言葉について考える」は「音やリズムなどとして発せられる発話について考える」を含むことになる。
もちろん、歌詞には文字として読まれるという機能もあるので、当然それも重要だ。
かくして実に当たり前の結論なのだけれど、
歌詞について考えるならば「書かれている文字や、そのリズム、音、などについて考えるべし」
ということになる。
だから、#ロゴススタジオ のコラムではこんなことについても触れたいのだ。
#ロゴススタジオ のハッシュタグを使って、僕以外にもこのことをかいていただてまったく構わない。
実際どんなことか、ちょっと例をみてみよう。
たとえば、僕は
「朝活」という言葉があまり好きではない。
ほとんど自発的につかったことはない(注意しておきたいのは、一般に「朝活」といわれるような行動が好きではないわけではない。むしろ、どちらかといえば朝から色々でかけたり、おいしい朝食をたべたり、朝からひとにあったりということは好きでよくやっている)
むしろ、内容として嫌いじゃないこれを「朝活」といいたくないのは、例えばこんな事情だ。
1、そもそも朝活という言葉はおそらく就活などそういった言葉から派生していると思われるが、就活は「就職活動」であり、もっといえば「就職のための活動」の略だ。朝活は「朝にする活動」であって、そもそも言葉の形式としてずれている。
2、「あさかつ」は音声として、「あ、さ、か」と「ア」の音で、しかも強い音が並ぶ。そのあとに「つ」がきて、かなり発音しにくい。口に出してみればわかるが、若干片言のように聞こえる感じがしないだろうか。「朝」という言葉がもつ、強いけれど、流れるような気持ち良さ、そしてまさに1日のはじまりを表現するようなイメージを「かつ」によって、壊してしまっている。
別にだからといって、この言葉を世の中から排除したい、とかそんなことを思っているわけではなく、
例えば、歌詞のような短いセンテンスを重視するような世界のなかでは使えない、という程度の話だ。しかし、その程度の話が「言葉」をつかっていくという覚悟のなかでは一番重要になってくる。
好きな言葉、使いたくない言葉、色々整理してみるのも面白い。