歌詞を書いたある日のこと
ちょっと遅くまで作業をしてしまったなという日は、帰り道の15分のためだけに、厚着をしてマフラーも巻いて、ということがすこし面倒臭い。詞をかくためだけだったら、別にどこに出かけなくてもいいのだけど、外に出て書く歌詞と家で書く歌詞はきっと違うだろう。人と会って話しているときに、僕の脳の一部は(それはまったく部分を意図的につかっているわけではないけれど)今度はこんなことをかいてみようかと思案しているようだ。
金曜日なので、オフィス街にあるスタジオの近くの店はどこも賑わっている。声は聞こえないが、あかりがまだたくさんついているのが窓からみえる。帰りがけにメールをチェックすると、旧知の制作ディレクターからあるグループの新曲の歌詞の依頼が来ていた。締め切りは一週間後、レコーディングも近いらしい。一週間という期間は、まあ常識的なものだ。かつて、翌昼までに欲しいというメールが夜22時にきたこともある。この週末は比較的余裕があったので、依頼を受ける旨のメールスタジオのパソコンで送信してから帰宅の準備をした。
外に出ると、すぐ近くの立ち飲み屋では、店先まで人が溢れている。冬でも関係ないらしい。むしろ冬だからこそ、その寒さに少し耐えながら飲むのが気持ちよいのかもしれない。冬を忘れよう、とわざわざ思うのは冬だけだ。
冬に依頼される曲が、冬の曲であることはほとんどない。きょう依頼されたのも春に出る春の曲だ。作詞家の頭と体は別の季節を感じていなければいけない。実際には、もうすでに仕事としての頭の中は春や夏のことを考えている、というよりも先のことを考えている、というのが正しいかもしれない。先だ、と考えたときにそこに春とか夏とか秋とか、まだ知らない季節がある。知らない季節を想像することが、当たり前に日常になっている。
朝飲む牛乳でも買って帰ろう、とコンビニに立ち寄る。スマホをみると、先ほどのメールにもう返事がきていた。楽曲のより具体的な情報とデモ音源がついている。春の曲で、基本的には自由にかいてくれということだ。そのグループのことは、ある程度の情報は頭に入っているが、そのままさっとスマホで歌詞サイトをみてみた。曲のタイトルをみて、中身を思い出せる。特に春の曲と思われるものの歌詞も確認した。
寒いので、コンビニにいる間にやってしまおうとおもって、ポケットの中で少し絡まっていたイヤホンをとりだしてスマホにつなぐ。家まで歩く間に、このデモ音源を聴いてみたい。メールには楽曲の作曲者についての情報はなかった。ファイルにもそのグループの名前が書いているだけだったが、楽曲がはじまると歌が入っていてそこには歌詞も入っていた(めちゃくちゃな日本語と英語が混ざった、いわゆる仮歌という感じだ)。デモはワンコーラス、だいたい90秒くらいだったので、続けて2回聴きながら歩く。
この辺りの景色は見慣れていて、よっぽどのことがない限り歩いているだけで新しい視覚的な情報が入ってくることはない。
2回聴いて、自分が一番歌いたくなる、あるメロディがあることに気がついた。これは、僕自身の感覚でしかないが、しかし一方で確信めいたものがある。きっと作曲者が、ここでメロディの山をつくっている。アレンジャーが、ここを軸にアレンジのグラデーションを決めている、という場所がみえてくる。
なんとなく体の中が暖かい。いつのまにか、頭以外も春に移動しているらしい。そのメロディの部分をもう一度聞き直して、こんなタイトルにしようと決める。それをスマホにメモして、イヤホンをとる。現実に戻るとまた、急に寒い。
翌日は、予定よりも少しはやくスタジオに向かう。この日も寒い。家をでてすぐ、またイヤホンをする。コートの中で、昨日から何もしてないはずなのに、どうしてイヤホンは絡むのだろう。ワイヤレスのイヤホンを使わない理由を、何日か前に人に説明したばかりだけれどこの時間を省略できるメリットはたしかにありそうだ。
メモしたタイトルはメモをみなくても思い出せる。メロディも思い出せる。これでいこう、と確信する。昨日の帰りと同じ道を通る間に曲を三回ほどきいて、その間に歌詞のおおまかな流れを考えた。景色はほとんど目に入っていない。ほとんど赤信号にひっかからなかったので、おもった以上にすぐついてしまった。
スタジオにつくと、今度はスピーカーで曲を流す。幸い、大きく印象はかわらないが昨日もらったデータの中で歌の入っていないカラオケのデータも開いてみる。それをかけながら、自分でメロディを歌ってみる。概ね、メロディはあたまに入っている。歌ってみると、いくつかこの言葉の並びがいいだろう、というものが見えて来た。このときは適当に歌っているようでも、タイトルに引っ張られれた言葉たちが、条件反射のようにでてくる。
1時間ほどで、歌詞の原型ができたので、スタジオで自分で歌ってレコーディングしてみる。歌詞のはまりがよいかどうかの確認をする。
問題なさそうなので、そのデータとともに、歌詞のデータをディレクターにおくる。よく考えてみると、依頼がきてからまだ1日もたっていない。スタジオにいるので、プロデュース作品のアレンジで途中になっていたものを仕上げる。
3時間ほど、作業を続けて散歩がてら外に出た。このあたりの土曜日は人が少ない。メールを見るとちょうど先程の歌詞について返事が来ていた。大きな変更はなく、細部のワードをアーティストイメージに合わせて変更したいということだったので、時々いく喫茶店に入りスマホで修正をする。
僕は歌詞を書くときに辞書を引かないし、単語も調べない。ネットを使うのは、同じタイトルのものがあるかどうかを調べるときだけだ。
そのとき僕のスマホは世界から隔離されて、ただ音楽を再生し、言葉を打ち込まれていく。
これで問題ないです。と確認が来たので、この日はもう仕事を終えて本屋さんに向かった。
土曜日はどこも混んでいるけれど、読みたい本の前に行列ができていたことはない。