哲学を知ればできるようになる、かなり重要なこと


大学で、哲学を専攻する学科を卒業した。
入学した時は理系の学部だったので、客観的に見てもどこかのタイミングで哲学に「はまって」人生が変わったことになる。ひとりの人生を変えたというだけで、影響力があるといえるのかはよくわからないけれど、人類の長い歴史の中で有史以来の頭脳と言われる人たちの中にも、哲学の問題にとりつかれてその結果人類の発展に貢献した天才がいる。

いま、哲学をテーマにした「フィロソフィーのダンス」というアイドルグループをずっとやっていて、これだってある意味ではメンバーやファンの人生に少なからず哲学が入りこんでいる。

どうしてこんなことが起こり得るか、といえばそれは純粋に哲学が面白いからだ。

面白い。

人間にとって面白い。

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ところで、哲学というのは本来なにか特定の学問分野をさすわけではない。むしろそういった特定の分野の土台になるような基礎的な部分を担当するのは哲学の仕事である、というようによく言われる。
他にも色々と言われることはあるけれど

実際、哲学自体とはいったいどんな分野なのだろうか。

どれだけ好意的に見積もっても、人類は有史以来のその明確な回答を出せていない。

哲学とは何か、に哲学者もそれ以外もずばっとこれだとは答えられていないのである。

もう少し難しげにいえば

哲学の必要十分条件は、哲学者にもまだわからない。


ところが、実はこれはよく考えてみるとどんな分野でも同じことだ。

「数学とは何か」「音楽とは何か」という問題に、数学者や音楽家がこたえることはできない。インターネットの専門家であっても「インターネットとは何か」という質問に明確な回答はできないだろう。

なぜかといえば、これは、この問題がその分野に関する問題なのではなくてそれよりもメタな問題であるからだ。
メタ、つまり問題の階層が違うということになる。例えば日本という国の経済の問題を解決することと、特定の日本人誰かの経済的問題を解決することと同一視することはできないように(関連はしているけれど)
だから、これはそもそもからしてそれぞれの分野の専門家の考えうる問題ではない。

さて、実はこのメタ、という考え方は哲学の考え方である。
そしてつまり、そこからも言える最も大事なポイントは

哲学はあらゆる学問のなかで唯一

「自分自身について考えることができる」

ということだ。

哲学だけが唯一「自分自身(哲学)とは何か?」を自分自身に問うことができる。

哲学はこういう性質をもっているために、
「自分のことについて考える」
ときに、他の分野にはない力と技術を発揮することになるのだ。

自分自身のことを考えるのは実はとても難しい。考えようとすると、どうしても「これまでの自分」とか「自分の思いこみ」とか、場合によっては自分自身を見つめるためには邪魔になるものがどうしても現れるからだ。
哲学は、経験的にそれらの影響をできるだけ受けずに自分自身を思考するための技術を発展させてきた。

ひとつだけ有名な例をあげよう。僕が思うところの「まず読んだら面白い哲学書」でも上位に来る(比較的読みやすくて、薄い)

ルネ・デカルト『方法序説』

の中に哲学史上、そして人類の学問史上に燦然と輝く

"Cogito ergo sum"
(日本語訳では普通「我思う、ゆえに我あり」と訳される)

という一節がある。

邦訳をそのままとらえれば

「私は思う(ことができる)、よって私はある(存在する、と言える)」

ということで、なんのことはない当たり前のことのようにも見える。

しかし、ここには信じられないくらい重要な示唆がある。

デカルトは、様々な学問を考えるにあたり、まず全てのものを疑ってかかった(De omnibus dubitandum)。例えば、思いこみとか、計算間違いとか、あるいは神や悪魔が意図的に人間に間違うように仕向けているかもしれない。このように疑っていけばどんなに間違いないと思われるようなことでも、ほとんどが疑うべきものだと思えてくる。

しかしこれでは、それらを基礎にして様々な学問を考えるなどということは、ほとんど見込みのない試みということになってしまう。
(実際に「懐疑主義」というように、そのようなことを正しいと主張するひともいた)

しかしデカルトは、

「考えてみると疑いが拭えないものばかりないのだけど、今自分がまさに疑っているということ、これだけは疑えない、これだけは否定できない」

とこう考えた。

これが、
「我思う、ゆえに我あり」
だ。

なんて頭がいいのだろうか。

ここから、スタートとしよう。これだけは自分自身のこととして、疑えないわけだ。

もちろん、デカルトがこのような議論に至った理由はただの思いつきとか、今言ったような理由だけではなく、また哲学史の中ではデカルトの思想をどのように位置づけるのかということはそれだけで一分野ができるような問題なのだけれど、

今あげたことが明らかなブレイクスルーであることは間違いない。

そして、デカルト以降の哲学、そして人間の心理や行動に関する学問は実際ほとんどが、このデカルトの主張がどの程度正しく、どこがおかしいのかという議論とほぼほぼセットで進んでいく。

哲学を知れば、

「自分自身の問題」

を考えることができるのだ。

そしてこれよりも重要なことがあるだろうか。

人であれ、グループであれ、コミュニティであれ、国であれ、自分自身の問題を。


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