大切なことはバンドスコアに書いてない -僕がバンドサークルにいた頃 part.2


二年生になり、部長にもなった。
何ができるかといえば、自分の好きなものをライブでやろうということが可能になるわけだ。

もちろん、そんな強引にそれを進めても面白くないので後輩たちには自分の好きなCDを(そう、当時はCDだった!もちろんデータをUSBなどで渡すことはあったけれど、まだファイル便などは一般的とはいえなかったとおもう。もちろんサブスクはない)を貸すところからはじめた。

 僕は上京してすぐに大学が近いというただそれだけの理由で下北沢に住んだのだけれど(これが後々の「プロミュージシャンを目指す」という方針に一定の影響を与えたことは間違いないだろう。それを決めたのは引っ越したあとだけど)、当時下北沢にはハイラインレコードというCDショップがあって、ここは流通していないインディーズの委託販売のメッカだった。ようは下北沢などで活動しているまだ全国のCDショップでCDをだいたりしていないデビュー前のバンドたちがここにCDをもってきて、売ってもらうというわけだ。とにかく近所だし、インディーズのCDはどれもそんなに高くない(数百円だった)ので色々と買ってみていた。その中でも抜群によいなと思ったのが相対性理論の『シフォン主義』という5曲入りのCDだった。(これも五百円とかそのくらいだったと思う。のちに流通盤も発売されることになる)。これは素晴らしい、絶対にそのうち話題になるからといってサークルのメンバーにそのCDを渡して早速コピーした。といっても5曲、しかも曲が短いのでとりあえず全曲コピーするしかない。

 余談だがのちに大森靖子さんの誕生日イベントでコピーバンド企画をしたときに、相対性理論のコピーをやることになった。ドラムは相対性理論のオリジナルメンバーの西浦さん、そしてベースは森夏彦くんがex.相対性理論の真部さんから借りたベースで弾くというかなり本物度が高いコピーバンドだったと思う。ギターだった僕は特にこれといった関係性はないのだが、たぶん東京の大学のバンドサークルで一番早く相対性理論のコピーをやったのは僕たちじゃないかと思う、と適当なことを言っておこう。

 当時はレコファンにもよくいって、中古のCDを100円でとにかくたくさん買った。昔100万枚とかうれたCDはかなり中古に出ていて、同じものをきかないまま何枚も買ってしまったことがある。その頃はまだアイドルのCDを複数枚買うというのもそれほど一般的ではなかったと思う。AKB48はすでに存在していたが、僕はギリギリ名前を知っているというくらいだった。

 メタルやハードロックから離れてコピーしたのは例えばイエモンとかピロウズとか、そのあたりをまずやったと思う。

どれも時代的にあっていたかというとよくわからないが、今でもファンが多いし、当時も多かった。東大には「アビーロード」というビートルズのみしかコピーしない変わったサークルがあるが、そのサークルの人がうちを訪ねてきて「どうしてもバックホーンのコピーがやりたいから、それだけ一緒にやってくれないか」といわれて、コピバンをやったことがある。


 実はそれまであまり聞いたことがなかったのだが、なるほどこれは人気がでるわけだ、と楽曲をコピーしながら思ったのは覚えている。なんだかこのころから、邦楽については少しこういった聞き方をするようになっていた。ただ、まだこの時点でもプロのミュージシャンになろうという気はな買ったと思う。(そのためのバンドを組むのももっとずっと後のことだ)

当時、下北沢ではギターロックはもちろん、ポストロック、エモーショナルハードコアといったあたりの音楽も流行り始めていた。例えば当時すでにかなり人気があったtoeのコピーなどをやってみようとおもったこともあったが、これはなかなか難しかったのを覚えている。楽器の編成的にはポップスよりもバンドサークル向きであるにも関わらず、なかなかコピーバンドが実現しなかったジャンルとしてもよく覚えている。


 そういえば、この記事のタイトルにも関連していることなのだけど、こうやってそれほど圧倒的にメジャーなもの以外をコピーしようとすると市販のバンドスコアが存在しない曲をたくさん演奏することになる。そうなると当然「耳コピ」といって、自分で音源をきいて、必要ならば譜面におこして、演奏しないといけなくなる。ドラム、ベース、ピアノなどは比較的それがしやすいのだが、ギターやシンセサイザーはなかなか難しい。というのも、これらの楽器は複数の音が同時にでる上に、その音色にかなりのバリエーションがあるからだ。しかもいい感じにコピーをしようと思ったら、これらの楽器の音色を再現することは絶対に必要だ。ギタリストなら、エフェクターなどにもこだわる必要があるし、シンセはより細かい音作りが必要だ。これらのことはバンドスコアがあってもほとんど書いていないし、耳コピならなおさらだろう。

 
 逆にメジャーなものでいえば、バンドサークルでは信じられないほど頻繁にコピーされる楽曲というのもある。これは当然そのアーティスト、楽曲を支持する人が多いということもそうだけれど、それ以上にそのアーティストへの憧れ、つまりその人みたいになってみたいという傾向が強いアーティストに顕著だろう。例えば女性ボーカルの邦楽でいえば、椎名林檎、JUDY AND MARYなどは時代を問わずよくコピーされていた。
 そして往々にしてその流れでいえば、ボーカルの方の希望でaikoをコピーすることになるのだけれど、これがかなりハードルが高い。まず譜面に起こすのがかなりやっかいだ。演奏も難しい。

 それからいきものがかりもコピーした。僕が大学生になったくらいのときに大ブレイクしていたのだ。こちらは編成的にバンドサークルで再現するにはかなり無理がある。パート的に僕が「その他全部」のようなことになり、かなり苦労した覚えがある。ずいぶん後になっていきものがかりの水野良樹さんに「気まぐれロマンティック」をギター一本でバンドでコピーしたという話をしたら、いったいどうやってやったの?と驚いていた。いったいどうやってやったんだろう。

 

 こうしてサークルでは結構自分の好きな曲を中心にコピー曲をやれるようになってきていたのだが、当時僕はどうしてもスーパーカーのコピーバンドをやってみたくて、これだけはなぜかサークルではあまりやりたいという人が見つからずなんとなくネットで見つけた人とスタジオでコピーバンドをやってみた。

このコピーバンド自体は数回スタジオにはいって、好きな曲をやれたので満足したのだが、この経験がのちに「プロを目指してバンドを組んでみる」という行為につながるとはこの時だれが思っただろうか。だれといっても僕以外いないし、僕は思わなかったので、まさに青天の霹靂である。そういえばリードギターで作詞をする、というのはいしわたりさんと同じではないか、というのは偶然だがやはり影響はあるような気もする。

僕がデビューすることになる「ふぇのたす」というバンドを組んだばかりの時に、ちょうど公開でデモテープを聴くというイベントがあり、そこにデモテープを持っていったらイベントの審査員がいしわたり淳治さんだった。結構コメントが厳しくてびっくりしたのだけど、僕のもっていったデモと歌詞をみて「このままデビューしてもいいと思う」とおっしゃった。まあ結構ひどいデモだったような気もするけど、たしかに歌詞はもう自分で書き方というものがわかっていたころだと思う。

 ずっと後になって、またご一緒したときにはなぜかそのときのことよりも、昔のコピーバンドの話をしてしまった。あのときネットであって数回スタジオに入ったボーカルの方と、ベースの方にはその後一度もあっていない。たぶん、今も僕と同じで夏の夜に『スリーアウトチェンジ』を聴いているんじゃないかと思う。

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