メリーゴーラウンドがまわせない


先日の #ロゴススタジオ 作詞ワークショップではかなり多くの話題が出ました。

この日のテーマは、「替え歌」であり、その題材として
岡本真夜さんの「TOMMORROW」という楽曲を話題に出しました。

冒頭サビの一行目
「涙の数だけ強くなれるよ」
これを変更できるかどうか、という話です。

「替え歌」に関しては様々な意見がでて、それ自体も面白かったのですが(該当記事があるのでそちらを見てみてください)

やはり、この冒頭以上のフレーズはないのではないか、という文脈で僕はこのフレーズは一種の呪いであるという旨を話しました。
特にネガティブな意味ではないのですが、

「涙の数だけ強くなる」というフレーズは、基本的には今後使えないだろう、ということです。少なくとも、こういった曲調であったり、サビの冒頭にもってきたりすることは難しいと思います。それは単純に、この曲があまりにも有名であり、かつ完成度が高いからです。もちろん、新たにつくる曲でこのフレーズを使うことが「物理的」にできないわけではないですし、あるいは「音楽的」にも可能かもしれません。しかしその場合であっても、そのような歌詞があった際にどうしてもこの曲が想起されてしまうことはほとんど間違いないように思います。

このようなものの例として、その場で僕がだしたのは

「メリーゴーラウンドがまわせない」という話です。
もちろん久保田利伸さんの「LA・LA・LA LOVE SONG」を念頭においた発言です。

もちろん、この曲における「メリーゴーラウンド」がいったい何のメタファーなのか、ということの議論は重要だとは思います。しかし単純に表現として、この楽曲がすでに人口に膾炙していることを考えると、歌詞で「メリーゴーラウンドをまわす」際にはかなり注意が必要であるように思われます。

このように特に、知名度がたかいと思われる歌詞表現におけるメタファー(それ以外の表現もありえるとは思います。たとえば固有名詞の組み合わせ、あるいは文法や用語法としてイレギュラーな使用法を用いたものなど。ただ、それらは後述するようにパクリの問題と密接にリンクしています)は、その後の使用に関して重大な影響を与えかねない、そういった意味で呪いであると表現しました。(ちなみにこれは呪いという語の本来の用法だとは思いますが、呪いという語にも別の呪いがかかっているのでそちらも興味のある人は考えてみてください。)

この問題は、いわゆる「パクリ」の話とはやや、別の問題です。作詞においては、いったいどこまでがオリジナルなのかという問題は、原理的にかなり難しい問題です。

例えば、
「I love you」
という表現をつかったからといって、それが誰かのパクリであるという風に捉える人はいないと思います。

ところが、この「I love you」を夏目漱石が「月が綺麗ですね」と訳したという話があるのですが、これをそのままつかったとしたら、例えば歌詞でI love youにルビをふって「月が綺麗ですね」と歌ったら、これはパクリであるとほとんどの人が認めるように思います。

この辺りも今後考えるべき問題であるように思います。

ひとつ重要な示唆としては、

「涙の数」も「強くなる」も「メリーゴーラウンドがまわること」もそれ自体では、通常の語の組み合わせによって成り立っています。しかし、そのような語の組み合わせであっても表現として新しいものがつくれる、そしてそれらがメロディと組み合わされたときにまったくこの世界にこれまで存在しなかった対象がうまれるということです。

これが作詞ということなのだと思います。

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