ハウトゥメイクフィロソフィカルサンドイッチ(哲学的サンドイッチのつくりかた)


サンドイッチの作り方は簡単で基礎的だ。
しかし基礎はまた、非常に重要なのでもう一度おさらいしてみようと思う。

まず、サンドイッチとはなんだろうか。
普通はパンで何かしら食材を挟んだものをそのようにいう。パンとは小麦に水や酵母などをいれて、発酵させ焼いたものだ。また間にはさむ食材については、特に食べられるものであれば指定はないように思う。肉や魚、野菜、フルーツ、調味料など、さまざまな種類のサンドイッチが考えられる。

挟む方のパンに関しては、食パンであることが多いように思う。食パンとは文字どおり食べられるパンのことである、といいたいところだが、パンは食材に含まれており、「食材」とは食べられるものという意味なので、そのような説明は意味をなさない。食パンは、パンの中でも直方体の箱(それなりの厚みがあるもの)にいれて焼いたパンのことで、名前の由来には諸説あるらしい。名前の由来が諸説ある、というものは世の中にも多数あるが、どうして定説が出てこないのか、ということに関しても諸説ある。もちろん、食パンとは日本語での名称である。またサンドイッチは日本語ではないので、両側のサンドするパンのサイズが一致している必要がある、などという意味が由来なのではないかと悩むことはない。

さて、食パンに食材を挟んだものをサンドイッチというのであれば、先ほど述べたことからパンも食材であるから、パンでパンを挟んだもの、つまりパンもサンドイッチではないか、というような問題が生じる。実際にはこれもサンドイッチであるといえるだろう。
しかし、一般にはパンの間にはさむものはパン以外のものが多い。多いのは、加工肉(ハムなど)、野菜(レタスなど)、卵、調味料(マヨネーズなど)といったところだろうか。この場合、それぞれも単独で食べられる状態のものを挟むことが多い。例えば、たまごはスクランブルエッグ、ゆで卵、目玉焼き、などどうった形状のものをいれることも可能だが、ゆで卵をからのついたまま挟むことはない。これは、卵の殻が一般には「食材」ではないということからも説明できるが、主にサンドイッチはパンと一緒に挟んだものを口のなかに同時にいれて食べられるようなものをいうため、殻がついていてはそれができないことからも除外できるだろう。

また、調味料、例えばマヨネーズだけを単独で挟んだものはあまりサンドイッチとは言われない傾向にある。しかしながら、現状の定義においては少なくともそれをサンドイッチではないと断言することはできないだろう。ではもう少し踏み込んで、何も挟んでいないものもサンドイッチではないのだろうか。何も挟まれていない、ということはそこに何もない、ということではない。そもそもそこに何もないのだとしたら、そこにはまさに「何もない」わけで、「挟まれている場所」というものも存在しないことになる。つまり、少なくともそこにはパンとパンに挟まれているところ、というものが存在している。言い換えれば、これはパンとパンの間に何かが挟まれる可能性のある状態のサンドイッチ、ということだ。(これをひとまず仮サンドイッチと呼ぶ)

仮サンドイッチはサンドイッチではないのだろうか、というのがここでの疑問である。一般にはこれはサンドイッチではない、というのが常識であるように思われる。

しかしそのように考えると以下のような問題が生じる。

たとえば、食パン二枚でハムを一枚挟んだ簡素な食品を考えよう。この時、これがサンドイッチであることは明白である。このサンドイッチを食べようとした際、誤って中に挟んだハムをまず一枚まるまる食べてしまったと仮定する。すると、ここに残るのは物理的な対象としては前述の「仮サンドイッチ」である。

しかし、実はほんの1mmだけハムがパンにくっついて残っていたとしたらどうだろうか。これはサンドイッチである。

このように我々には、サンドイッチと仮サンドイッチの境界線の問題が生じてしまう。ほんの少しでも残っていればサンドイッチである、と考えることがまず最も基本的な考え方であるように思うが、この場合にも以下のような問題が残る。

それは、「ハムがなくなった仮サンドイッチ」と「そもそも何もなかった仮サンドイッチ」は違うものなのではないか、という問題だ。なぜなら、少なくとも前者はある時点において「サンドイッチ」であったといえるからだ。それに比べて、後者は少なくともここまでのどの時点においても「サンドイッチ」であった事実がない。このように一時的な性質に関しての差違があるものを同一視できるのか、というのがこの「仮サンドイッチの境界線問題」である。

この問題を解決するには、

「仮サンドイッチ」「サンドイッチ」

という区分ではなく、

「常にサンドイッチであるもの」「常に仮サンドイッチであるもの」「ある時点において、サンドイッチであり、ある時点において仮サンドイッチであるもの」

というような区分の仕方を導入する必要があるだろう。そのようにすれば、境界線問題は単に時点における性質の問題ということになる。

しかしながらよく考えてみてほしい。仮に「常にサンドイッチであるもの」が存在したとして、それをサンドイッチであると考えたとしよう。そのように考えると、そもそも「サンドイッチをつくる」という行為は無意味なものであるか、あるいは全く不可能なことであるということになる。
 なぜなら、この場合サンドイッチとは常にサンドイッチであって、「つくられる」ようなものではないからだ。これをみとめるには、そもそもサンドイッチというのは我々がつくるような対象ではないと考える必要がある。

つまり、サンドイッチとは概念である。
概念的な存在として、「サンドイッチ」というものがあり、

我々は

「概念的サンドイッチの満たすべき性質のうち、そのほとんどをある時点においてもっているものをつくる」ことを

「サンドイッチをつくる」
と呼んでいるのである。

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ヤマモトショウ

作詞家です。音楽をつくります。#ロゴススタジオ で作詞について書いてます。「食べる毎日、毎日食べる」では一日一軒食べたお店を紹介します。

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