尻尾

「尻尾」

 JRの掛川駅に新幹線こだまが到着したのは、もう陽も傾きはじめた17時半過ぎだった。東京から西にある程度の高速で移動すれば、ほんの少しだけ日の入りを遅らせることができる。しかしどちらかといえば、秋に近づくこの感覚をむしろはやく掴みたいとさえ思えるような気持ちのよい気候だった。
 目的地まではこの駅からタクシーで15分ほどらしい。名前はよく聞く場所だが、さりとてどこでその名前を聞いたのかということになればほとんど思い出せない。都心にある、とある企業のセミナー合宿で数日間宿泊をして研修を行うらしい。私はこの後の夜の講義のゲストとして会場に向かっているが、おそらく期待されているのはほとんど余興のようなものだろう。今日はそのまま会場のホテルに宿泊して、明日の朝帰るということになっている。メールで連絡を寄こした担当者は、「温泉もあるのでぜひゆっくりしていってほしい」と書いていた。話を聞く限りでは、かなり頻繁にこの施設でセミナーを開催しているようで、実際羽振りも良さそうだ。ギャラもこの手のセミナーとしては悪くない数字だろう。それに加えて宿泊と、温泉までついているというのだから、普通に考えれば断る理由はない。正直いって割りの良い仕事だった。
 新幹線改札から出てすぐ右手にタクシー乗り場が見える。先ほどホームから見えたその先にはビジネスホテルらしきものが数件あるばかりで、少なくともこの出口の駅付近は飲食店が並んでいるという様子ではない。降りるときに見た新幹線のホームにはサラリーマン風の人がほとんどだったが、彼らはこの辺りで仕事に一杯、ということにはきっとならないのだろう。
 駅前にタクシーは数台停まっていたが、今ひとり逆にタクシーから降りる客がいたくらいで、自分以外にはこの時間にそこから乗ろうとする人はいないようだった。先頭で待機していたタクシーにスムースに乗ることができ、乗り込んですぐに目的地を告げる。運転手はこちらをちらっと見ただけで、特に行き先の名前を復唱もせず、あるいはカーナビなどを操作するわけでもなく、たちまち車を発進させた。この駅からタクシーで向かう目的地としては、おそらく定番の場所なのだろう。
「ここからだと、何分くらいでしょうか?」
 所用時間はあらかじめメールで聞いてわかってはいたが、一応確認をする。
「この時間であれば特別混むことはないので、そうですね、15分もあれば着くかと思います」
 その言葉をきいて、担当者にメールで一報を入れる。指定された時間よりは少し早く着くことになりそうだが問題はないだろう。駅に止まる新幹線は30分に一本なので、この時間に着くということはだいたいわかっているはずだ。
「今日はお泊まりですか?」
 運転手が聞いてきた。乗った時には無愛想なタイプか、と思われたが、話し始めると少し暗い雰囲気は感じるものの態度が悪いわけでもなく、むしろどちらかといえば渋い、という印象を与えそうな物腰だった。。
「あ、ええ、そうですね。向こうで泊まる予定です」
「この時間にあそこまでいらっしゃる方は珍しいもので」
 運転手はそういって、少しだけ顔をこちらに向ける。こちらの表情を伺っているようにも見えた。
「そうなんですか?まあたしかにタクシーに乗る人もいなさそうではありましたけど」
「ええ、だいたい皆さん朝か昼くらいにはいらっしゃって。団体の方はもうバスなんかでいかれる場合が多いですけども。あそこは高速からの方が近いくらいですからね。お客さんは、今日はご旅行で?」
 タクシーに乗ったときの運転手との会話というのは大概その地域の情報集でもなければ身にならないようなものばかりである。一人でこの辺りに旅行ということもないだろう、と内心やや苦々しく思いながらも、15分くらいならば話に付き合うかという気持ちにもなってきた。
「いえ、仕事です。」
「お仕事で。なるほど。お仕事でも、この時間にいらっしゃる方というのは珍しいですね」
 運転手は先ほどからしきりに驚いているようだったが、口調はさほど変わらない。低いトーンで落ち着いた印象を与える声だった。改めて気付くと車内は、あまりタクシーでは嗅いだことのない自然な香料のような匂いがしていた。大抵の場合、タバコの匂いが残っているか、あるいはそれを消すために強い消臭剤の匂いがするかである。今回はタバコも吸わない、なんなら匂いにも気を使うタイプの「当たり」のタクシーだったのだろうか。
「運転手さん、えっと」
「佐藤です」
 佐藤と名乗った運転手はそういって助手席の前にある名前の書かれた紙を軽く指差した。名前の隣にある写真を見ると、かなり身なりに気を使っている五十代、といった出で立ちの男の姿があった。写真写りもよく、あまりこういった証明写真などでは見られないくらいの出来栄えに思えた。若い頃はさぞかしモテただろう。いや今の方がある意味で、近い世代の恋愛対象になりやすいのではないだろうかという邪推をしてしまうくらいには印象が良い。
「佐藤さんはよく、あちらまで行かれるんですか」
「ええ、まあ。この辺りじゃあ、そんなに目的地もないですからね。観光で、お城の方にいくっていっても歩いていけるくらいですし」
 観光名所として最初にあがる城跡は駅の逆側にあるようだった。
「なるほど、そんなものですか」
「ええ。お仕事というのは、商談か何かですか?」
「いえ、セミナーの、いわば講師のようなものです。」
 佐藤は、ほお、といってまた少しこちらを見るような仕草をした。
「講師ですか。お若そうに見えるのにすごいですね」
「いえ、そんなに大したものではありません。」
 すでにタクシーは駅前の建物が密集したエリアを抜けて、低い建物しかないような住宅街に入ろうとしていた。住宅街といっても家自体もまばらに見える。地方の駅というのは、新幹線が止まるようなところでも少し動けばこんなものだろう。目の前にはやや小高くなった山のようなものも見えている。あのあたりが目的地だろうか。外は街灯もついているが、数はやはり心もとないようにも思えた。
 そのままふと目線をあげると、バックミラーには昔おみやげもので見たことがあるような、何かの尻尾の毛のようなアクセサリーがぶら下がっていた。色もリアルで妙に存在感がある。もちろん実際には本物など見たこともないのだが、それはまるで実物の狐の尻尾のように見えた。それが目の前でほんの少しだけ揺れている。
「参考までに、講義をされるのはどういった内容なんですか」
 話始めた時はそこまで聞かれるとは思っておらず話す気もなかったのだが、佐藤に関してはその落ち着いた口調からかあまり嫌な感じはしなかった。
「心理学、のようなものです。私、東京でそういった研究をしていまして。つまり、相手に良い印象を与えるような喋り方であったりとか、あるいはその逆はどういったことかというのを、心理学、つまり単に印象の話だけではなくて科学的な見地から説明しようという話です」
「はあ」
 佐藤の相槌は、あまりピンときていないような生返事に聞こえた。
「まあとにかく、そういったことを商談だったり、様々な場面で生かしていただくために私の研究事例をお話しする、といったところです。といっても、実際のところ話のほとんどは「どうやったら相手に好印象を与えられるか」というようなちょっとしたティップスをお話しするような、ほとんど余興のようなお話なのですけどね」
 少し自虐気味に話をしたからか、佐藤は申し訳なさそうに言葉を返した。
「そんなものですか。立派な研究のように思いますけども」
「もちろん、研究はきちんとやっています。ただ、結局求められる話題というのは「どうやったらモテるか」とかそういったことで、私も結局そんなことを話してしまいます。ウケがいいですからね」
「なるほど」
「佐藤さんも、お若い頃ずいぶんモテたでしょう。いや、今もかな」
「いえいえ、そんなことは」
 佐藤は謙遜しているというよりは、実際そんなことを思ってもいないというような口ぶりだった。
「そんなはずないですよ。で、なかったらこの後の僕の仕事に信憑性がなくなってしまいます」
 話を振った責任をとろうとしたのか、佐藤は強くは否定しなかった。
「お客さまの研究の結果でそのように感じられるのであれば、まあそうなのかもしれませんが」
「ええ」
 実際このタイプの人間がモテないわけもないだろう、というのは仕事とは関係ないレベルで確信すらあった。そういえば、目の前のこのアクセサリーも佐藤の世代よりは若い女性からもらったものではないか。あえて客から良く見えるこの場所につけるのにはどういった意味があるのだろうか。職業柄、そういったことも気になってきてしまう。
 車は目的地に近づいているようで、高速道路らしき場所を越えたあたりからほとんど周りに建物はない。辺りには、少し霧のようなもやのようなものが出てきた。
「入り口は割とすぐなんですけどね」
「思ったほど遠くはなかったですね」
「ええ、ただ門を入ってからが長いんです。このあたり一帯が敷地という感じですから」
 そういってしばらくの間は無言で車を走らせると、その入り口の門らしきものが見えてきた。かつてのバブルを感じるその門構えは薄暗さと霧のせいで奇妙な存在感を放っていた。以前は常駐の管理人がいたのであろう小屋のようなものも右手に見える。仕事でなかったらこの門の中をのぞいてみようとは思わないだろう。
 門を入るために車が大きなカーブを曲がった。バックミラーについた尻尾も大きく揺れたが、奇妙なことに車が曲がったのは逆の方向にピンと伸びているように見えた。
「ここから入りますよ」
 近くまでくると、さきほどは気がつかなかった門の奥にさらに赤い鳥居のようにも見えるまた別の門があった。車はそこを通り過ぎて、先がほとんどもやに包まれた道を進もうとしていた。ここはもう宿泊施設の敷地なのだろうが、確かにこの霧がなかったとしてもまだ目的地は見えないくらいの距離に思えるほどに土地が広がっているように感じられた。
「暗いですね」
「ええ、このあたりまでくるとねえ」
 と言いながら、佐藤は初めて左手でナビに触れようとした。かと思うと、その手はそこよりも上に伸びて、尻尾のアクセサリーにふっと触れただけだった。
「お客さん。もしかして、今日講師をするというのはあの方たちの集まりですか」
 佐藤がそういって名前を出したのは、たしかに今日講義を依頼してきた団体の名前だった。
「え、ああ、まあそうですけどもよくわかりましたね」
「こちらでよくセミナーをされてますから」
「そうですか。それじゃあ、こうやって講師の人を乗せたこともあったってわけですか」
「ええ、まあそんなこともありましたかね。ただ最近じゃああまりいらっしゃらないというか」
「そうなんですか?」
「まあ、あまり言いたがらないというだけなのかもしれませんが」
「というと?」
「お客さんご存知ないですか。最近じゃニュースでも色々いうようになってきましたけども、前々から色々と評判が」
「はあ」
「いわゆるその、カルトなんじゃないかって」
「ほう」
 私は思わぬ話の方向に、ひとまず平静を保てるように息を吐くだけのような一言を発した。
「それであまり喋りたがらない人も多いのかなと思いましてね」
 私は言葉を選びながら返した。
「まあ仮に実際にはそういう性質があるようなところだとしても、そこで講師をしただけで何か問題があるというわけではないような気もしますが」
 特に弁解をする必要もないのだが、一応ここはそういったポーズを見せておくくらいが良いだろう。こんな場所で余計なことを色々と言われたくもないし、変な勘ぐりをされたくもなかった。
「ええ、それはもちろんですよ。お客さんは、別の場所で今回のような講師をされたことが?」
「いや、ないですね。今回はじめて依頼をもらいました」
「これは変な意味じゃないんですが、どうも最近そうやって悪い印象を持たれがちだということで、新しい講師の方を呼ぶという動きもあるようでして」
「まあ、僕なんかが呼ばれるっていうのは、講師として来たいという人が足りていないということなのかもしれないですね」
 これは謙遜でもなく、ちゃんとした基準で人選をしているのか疑問だったというところが実感なのである。
 車はさらに霧の中に進んでいく。施設の中だからなのか、標識らしきものもほとんどなく目の前のナビにうつる道も目印になりそうなものは何も表示されていなかった。左手側には背の高い木々がずっと並んでいる。実際にはそれほど奥行きはない整備された街路樹なのかもしれないが、暗闇の中でそれはほとんど森のように見えた。右側は少し開けているようにも見えるが、暗くて様子はあまりわからない。
「それじゃあお客さんはあの団体の人ではない、ということなんですね」
「え、まあ、そうですよ。もちろん。」
 なんと答えるのが正解なのか少し言い淀んだのは失敗だっただろうか。佐藤は、何かを言いたそうに少し間をとっているようだった。
「実は、こんなことお伝えすべきなのか」
「なんですか」
「私の娘がですね」
 佐藤が話し始める。道は舗装されているようだが、やはり上り坂だからか少し揺れて声も少し聞き取りづらくなって来た。
「娘さんですか。お子さんが、いらっしゃるんですか?」
「ええ。もう成人はしているんですけどね。娘が、あの団体に五年前くらいに関わるようになってしまって。」
「はあ」
「最初はただ、その、なんですかセミナーというのに時々行くだけだったんですが、だんだんとその活動が中心になっていきまして。三年前くらいから、家も出てほとんど連絡もとれなくなってしまいましてね。」
 随分と穏やかではない話だった。佐藤の娘は、その団体に深く関わったことで、親とも連絡をとらなくなっているということなのだろうか。とはいっても、成人した娘のことである。心配ではあるが、家を出て行くことは変なことではないし、しばらく連絡をとらないというのも面倒がっているだけかもしれない。
 しかし例の団体というのが、やはり噂の通りカルト的な活動をしている集団だというのならだいぶ話は変わってくる。彼女はニュースなどで報道されているように洗脳され、外部との連絡を断たれているという可能性もある。
「それは、ちょっと心配ですね」
「ええ、色々なところにも相談したんですが、ニュースでやってる通りで警察や国はぜんぜん、こういったことには動いてくれないんですね。それでね、自分で尻尾を掴んでやろうと思って、それで実はこのあたりで働き始めたんですよ」
 そのためにわざわざこんな場所でタクシー運転手の仕事をはじめたというのだろうか。もっと他にも方法はあるようにも感じたが、今それを聞くのは野暮だろうと思いなおした。
「何かわかったんですか」
「まあ正直いって、あの団体が何をやっているのかということに関してはほとんどは週刊誌なんかで書かれてるくらいのことばかりですね。まあそれでも十分ですし、逆に色々な証拠なんかは結局何やっても出てこないか、あるいはどこかで消されてしまうんだとは思いますよ。ただ、この施設にはしょっちゅう来ているのでね、どこかで娘の情報だけでも得られたらと思って」
「なるほど。しかしそれは」
 それにしても、いつまでたっても会場の建物につく気配がない。おなじような暗い林道を通っているようにも見える。道もただ登っているだけではなく、アップダウンがあり、全体として上に向かっているのかもよくわからない。
「どうも娘らしい子を見たっていう情報もお客さんからあって。すいませんね、こんな話で」
「いえ。しかし遠いですね、門を入ってからもうしばらく経ちますけど」
「ええ。そうですね、もう少しです」
 そういいながらもまだ何も建物らしき場所は見えてこない。仕方がないので話を続ける。
「娘さんも、こちらによく来ているということですか。」
「そうなのかもしれません」
「ここではその団体の幹部もよく集まるとか?」
「ええ、そのようですね」
「ここではどんなことが行われているんです?ただのセミナーじゃないんですか」
 佐藤は、ああ、とため息のような声を発してから話し始めた。
「娘も、どうやら一度ここに来てから本格的にのめり込んでいったようなんですよ。もしかしたらここでは、いわゆる勧誘活動、それも一番本格的なものが行われているんじゃないでしょうか。それに、そういった一般の人たちだけじゃなくて、講師やゲストなんかでいらっしゃった人も、その後調べてみたらしっかりここの団体の広報に使われていたりというのもありましたね。まあもちろんわかっていてお金のために来ている人もいますし。」
 車の窓は閉めきっていたが、一瞬背中の方から冷たい風が吹いたように感じた。目の前の尻尾はまた揺れている。
「いや、僕は」
 私はそう言おうとするのをさえぎって、佐藤がさらに続けた。
「世論がうるさいので言ってないだけで会員だったり関係している人もたくさんいますからね。まあそういうのはちょっと本当にどうかと思いますけども」
 佐藤が言い終わるか終わらないかというとき、前方の視界に急に何かが入ってきた。一瞬その赤色がなんなのかわからなかったが、すぐに入り口にあった赤い鳥居と同じだと気付いた。
「あれ、これって」
 佐藤はそれに答えることなく、霧の中を進めていた。そして何度か軽く問いかけても何も返事はなかった。
 車は気がつくと、先ほど乗りこんだあたりの近くの街まで戻って来ていた。
「あの」
「お客さん」
 ちょうど信号で止まったところで、佐藤がこちらを振り返っていった。
「悪いことはいわないから、引き返したほうが良いですよ。今まで一度も関わったことがないなら、ここで帰れば関わりはないままで終われます。」
「いや、それはそうかもしれないですけど」
「そのまま送り出してしまったら私、娘にも何か申し訳ないような気もして」
「それは」
 わたしが言いかけたときには車は動き出し、そしてすぐに駅のロータリーに入っていった。
「お代は結構ですから」
 運転手はそういったが、私はとりあえず札を一枚おいて車を出た。
 私は彼に助けられたのだろうか。まさかこのようなことになるとは、割りの良い簡単な仕事だと考えて事前の調査が少し足りなかったかもしれない。
 しかし探偵として、あのカルト教団を調査するように信者の親族から依頼を受けた身としては、このまま手ぶらで帰るわけにもいかない。せめて依頼者の親族の行方を、尻尾だけでも掴んで帰らなければこんなところまで来た意味もなくなってしまう。
 私は駅の建物に入り、見えなくなったあたりからタクシーの様子をみていた。佐藤のタクシーは客を捕まえるでもなく、そのまますぐにロータリーから出ていった。私はそれを見て、目の前のタクシー乗り場に再度むかった。
 次に入って来た黒色のタクシーに手をあげる。乗り込もうとしたタクシーの前方をふと見ると、バックミラーにはほんの数分前に見たばかりの尻尾が揺れていた。


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