フィロソフィーのダンス『エクセルシオール』作詞家による全曲解説
フィロソフィーのダンスのニューアルバム『エクセルシオール』がリリースとなりました。前作『ザ・ファウンダー』でもやったのですが、全曲の作詞を担当しているということと、このグループの楽曲がまさに説明されることすら内包する形で「常に向上する(エクセルシオール)」ものであることも加味して、今回も他ではほとんどやらない(自分のバンドですらやらなかった)楽曲の全曲解説をしてみたいと思います。
まずアルバムタイトルは『エクセルシオール』、ラテン語で「常に向上する」という意味です。楽曲タイトルと違ってアルバムタイトルは加茂啓太郎氏がつけています(楽曲タイトルは基本的に作詞家である僕がつけています)。音楽家として、タレントとして「常に向上する」というは前回記事でもかいたとおりある意味では当たり前のことだとは思います。しかしその当たり前をちゃんとやりますよ、という宣言がなされているわけです。そして、フィロソフィーのダンスが冠する「哲学」を語る上でラテン語の存在は外せないものです。一口に「ラテン語」といっても時期などによってそれがさすものは様々ですが、ヨーロッパ中世か近世の学問の歴史、つまり現在の哲学やそこから派生しているすべての分野の基本になっている言語と言えます。
さて、それ前置きはそのくらいにして各曲の話に入りましょう。
1. イッツ・マイ・ターン
この曲は最初、2018年6月のフィロソフィーのダンスにとっての初となるバンドセットワンマンの一曲目、オープニング楽曲として制作されました。そういった意味でも、そして「ここから私たちのターン」だという、直接的な意味としてもアルバムの一曲目をかざることは誰もが予想し、そして約束されていた楽曲であろうと思います。
楽曲のテーマはニュース記事などでも言及されているように「コペルニクス的転回(Kopernikanische Wende)」。ドイツの大哲学者イマヌエル・カントが、自分の行った超越論哲学をさして評した言葉です。(ちなみにWendeは英語にすればturnですね)
カントが行ったことは、「認識」というものの捉え方を抜本的に変えることです。カント以前の哲学においては認識、つまりものを見たり聞いたりするということは、自分の外にある対象をなんらかの形で受け入れるというものでした。しかし、カントはむしろ我々が認識すること、あるいは認識するための形を認識することそれ自体によって、認識される現象が「形成される」と考えました。
もう少し簡単にいえば「ものが先か」「人が先か」という変化です。
これは、ニコラウス・コペルニクスがそれまでの常識であった地球が宇宙の中心であるという「天動説」から、太陽を中心に地球がそのまわりを回っているという「地動説」へと移行することを説いたことと対比できるということでこの「認識に関するまったく新しい考え方」(認識論的転回)のことを「コペルニクス的転回」と呼んでいます。
西洋哲学史において、このような発想の転換そのものが大きなターニングポイントとなっており、その後の哲学はもの自体ではなく人間の認識の仕方、認識形式を扱う「認識論」へとその中心が動いていきました。
音楽業界は今、例えばサブスクリプションを中心として大きな変化を迎えようとしています。それらの是非は色々なところで述べられていることなので、僕自身は今「変化が起こっている」という事実をいうことしかできません。しかしながらこの変化、例えばあらゆる楽曲があらゆるシチュエーションで聞けるようになることは音楽家、プレイヤーたちにとって基本的にはプラスになるものであると考えています。しかし、短期的なビジネスのスキームで見ればやや損をすることもあるかもしれません。それを未だに受け入れず、このまま逃げ切ろうとしている体制の姿は、新しいものを受け入れたくないがためだけに「つぎはぎだらけの複雑な天動説」を無理やり生かそうとしたコペルニクスの反対者たちのように見えます。
音楽をつくるの同時に、音楽のあり方もつくっていきたい、と考えるアイドルグループがいたらそれはあらたなターンではないでしょうか。
2. ラブ・バリエーション
作家として、「多様性」を常に意識して楽曲を作っています。多様性というのは間違いなく重要な概念であると思うと同時に、適当な理由づけとして使われかねない便利な用語になってしまってきている感もあります。
「みんな違ってみんないい」というのは真理ではありますが、そもそも「真理」というのは「真か偽かどちらか必ず一方に決まる」という前提のもとに説明されるものです。しかし大半のものは「真でも偽でもない、非常にファジーなもの」として存在しています。だから我々がもし無条件に受け入れられることがあるとしたら、ただ「みんな違う」というそれだけのことです。
違いを理解することは、違わないことを知ることでもあり、好きになったり、嫌いになったりすることです。
ある事象、あるいは心理的な態度が、「真か偽か」決定されるというのは、そもそも論理の中身の話ではなく「意味論」の世界です。
つまり、いわゆる「論理的」であるという人は
「同性同士の婚姻関係は制限されるべきである」
というような命題について、「論理的」につまり、「同性同士の婚姻」の歴史的な経緯、生物学的な内容、社会における認知、などといったデータから、論理的な回答を導き出すことによってそれらを議論します。
しかし、例えば上記は制限されるべしという議論の多くに対して僕が気持ち悪いと思ってしまうことの原因のひとつは
「そもそも論理というものを誤解している」
ことにあるように思っています。それは、「論理」とは万人にうけいれられた思考の体系である、という誤解です。
論理的な記号法は
「他者を否定するため」に使うものではなく、「ただ、議論をする際の共通言語をつくるため」に使用されるべきです。
多様性を本物にするための共通言語を手に入れる絶好のチャンスを目の前にしている気がします。
3. スーパーヴィーニエンス
今回のアルバム楽曲の中でも最も「哲学的に」難解な用語であるように思います。これまでいくつか哲学の専門用語が使用されたこともありましたが、その中でも最も「最近」の哲学用語です。(分析哲学、心の哲学などといった比較的新しい分野で使われることの多い言葉です)
日本語に無理やり訳すと「付随性」という言葉になります。
https://plato.stanford.edu/entries/supervenience/
以前にも書いた通り、インターネットで哲学で使われる用語を最も簡潔にかつ意義あるものとして確認したいときは「スタンフォード哲学百科事典」のページをみるのがよいと思います。「スーパーヴィーニエンス」の項目を見てみると
“A set of properties A supervenes upon another set B just in case no two things can differ with respect to A-properties without also differing with respect to their B-properties. In slogan form, “there cannot be an A-difference without a B-difference”
「Bという性質が違うことなしに、Aという性質が違うことがない」といえるときに「AはBにsuperveneしている」という。つまり、「2つのものに関して、Aという性質に関して違うことは、Bという性質が違うときにしか起こり得ない」
という時に、「AはBに付随している」といえます、というような用語法です。
あるいは僕の好きな本、David Lewisの”On the Plurality of Worlds"によれば
“We have supervenience when there could be no difference of one sort without differences of another sort” (1986, p. 14).
ともあります。
まだ少し難しいかもしれないので
例えば、
「足が痛い」という性質Aと「足を怪我している」という性質Bを考えてみましょう。もしこのAがBにsuperveneしているとしたら、
「Bという性質が違うことなしに、Aという性質が違うことはない」わけですから、もし足が痛い人と痛くない人がいたとしたら、必ず痛い人のほうは「足を怪我している」、痛くない人のほうは「足を怪我していない」ということなります。(もちろん、これはおかしいです。足を怪我していなくても足が痛い場合はありますし、なんなら実際には「痛くない」場合でも「痛い」という風にいうこともできます。この二つの性質はsuperveneしていないと考えるのが普通でしょう)
逆ならばどうでしょうか。
「足を怪我している」がA、「足が痛い」がBとします。そしてこのAがBにスーパーヴィーンしているとしましょう。
このとき、足を怪我している人といない人がいた場合、前者は必ず「足が痛い」後者は「足が痛くない」ということになります。(これもなんかおかしいですね)
では、この用語はどんなことに、そして何のために使われるのでしょうか。
哲学は、前述の「コペルニクス的転回」以降、人間の認識の仕方について注意深く観察し、研究する学問という側面を強く持ってきました。それは今も変わらず「認識論」というように大きなテーマとして引き継がれています。ところで、特に20世紀以降、科学的発展、発見とともに「基本的にすべてのことが科学の文脈で説明できる」というような考えがでてきたり、あるいは認識に関することも含めた問題のほとんどが「物理的な対象」として研究することができるというような考え方もでてきました。
これは様々な経緯はありますが、現代に生きる人にとってはもはやそれほど不思議な考え方ではないでしょう。例えば、以前にくらべて多くの人が霊的な存在を少なくとも信じていない、あるいはまさにそれが「信じるも信じないも実証できるものではない」というように考えているように思います。このことは逆に「そのようなものは我々が通常「とるべき」科学的な態度で測ることのできないものだ」という前提があるからです。
そこで、認識に関しては我々はこの「対象をすべて物理的対象としてとらえる方法論」をとることを一旦想定します。例えば、おそらく多くの人が我々は「脳」で認識していると考えるのではないでしょうか。
すると、例えば
「足が痛いと思った」という性質をA、「脳のある部分(足の痛さに関する脳部位)が反応した」をBとすると、
AはBにsuperveneしている
と考えるのが普通です。
つまり、「足が痛いと思う」場合は必ず「脳のある部分が反応している」ということです。
このような付随性の関係を、盲目的に信じることもできなくはないと思いますが、実際にはこれは少し奇妙な問題を含んでいます。例えば、条件反射などもそうかもしれませんし、そうでなくてもすべてを脳の動きに還元できるという考えはかなりつよすぎる内容といえるでしょう。
実際にはsuperveneしている関係のものを探すのは難しいです。
しかし、これまで「AはBにsuperveneしている」ということが当然の前提として捉えられてしまっていたものを洗い出して、議論をするのは上記のように非常に大切なことであるといえるでしょう。
それは哲学という基礎科学において、もっとも重要となる態度です。
例えば恋愛における、前提と帰結、これらもそのようなものの一つだと思っています。
あなたわたしのものに
果たして、どちらがどちらのものになったのでしょうか。
4.ロジック・ジャンプ
論理というのは前述した通り、また哲学史の上でも重要なテーマの一つです。ところが現代で「論理」といわれるものが整備されたのはせいぜいこの100年くらいのことで、それまで論理と言われていたものは「三段論法」などそれくらいです。
それが100年と少し前、「述語論理」が体系化されたことをきっかけに、多くの論理体系が明文化されてきました。
もちろん中世における普遍論争などに前後して、論理に関していくつかの重要な概念が提出されたり、ライプニッツによる可能世界論は20世紀の様相論理学に影響を与えていないとはいえません。しかしながら、実は我々が今最も信頼しているといえる「論理」は2000年余りもの間これといってその「論理性」や「客観性」を検証されることなく、現代にやってきてしまいました。
そういった意味において、論理はそのイメージ以上に色々なものを飛び越えてしまっています。
しかしながら、現代にいきる我々はどうしてもこのような論理の中で生きてしまっているのも事実です。(現代に限らない、と考える人もいるかもしれないですが)。自分はそんなことはない、と思った人がいたとしてもその人も「自分は論理の中でいきているか、いきていないかのどちらかだ」という論理(排中律)を使用している可能性が高いです。排中律などは、ほとんどのルールの根幹にあります。「AかつAでないものはない」というのがそれですが、例えばこれがなかったら法律などはほとんど機能しなくなるでしょう。
「恋は論理じゃなくもない」
といっているのは、まさに「恋は論理じゃない」という「感情に訴える主張」そのものもこの排中律をつかってしまっていたり、あるいは「人は論理を前提にしている」というまさに前提があるからこそ言えることだ、というようなことを表しています。
論理を無視しては本当のことはいえない、そもそも「本当」というのも論理の中にある概念なわけです。
5.フリー・ユア・フェスタ
哲学史について考える時、当然その思想が育まれた歴史的経緯、あるいは社会的経緯を考えないわけにはいきません。哲学者は別に浮世離れした絵空事を夢想しているわけではなく、現実的な社会問題についてという出発点からそれらの思想を展開しています。
「魔女裁判」というのは、現代においてもありえるものです。
つまり、(どこかで想定された)全体が、そこから外れているもの、ずれていると思われるものをそれだけを根拠に、あるいは根拠もなしに(もちろん根拠があればよいというものではありません)排除していくものです。
フェスにいくと、ステージに向かって「同じように」シーケンスのリズムにあわせて手をふっている人がいます。そして、そういったものをさして「そのアーティストのライブマナーがわからないから、行きづらい」という人がいます。どうやら、自分を勝手に魔女裁判にかけているようです。
当たり前ですが、自分が自分の範疇で楽しむ以上、ライブはどのような見方をするのも自由です。
今年も夏に向けて、たくさんのフェスがあると思うのですが、
みなさん自身の自由なライブを楽しんでいただければと思います。
6.パレーシア
「パレーシア」という語は、ギリシア語由来の言葉です。直訳すれば「包み隠さずいう」という意味になります。
しかし
「包み隠さずいう」というのは実際にはどういうことでしょうか。例えば自分の思っていることを人に100%伝えるというのは、ほとんど不可能なことのように思われます。そもそも、自分ですら自分の考えていることをすべて理解できているとはいえません。例えばアンビバレント、愛憎入り交じるというような表現がありますし、「微妙な感覚」というような表現もあります。そうとしか表現できないから、そうなっているわけですがだからといってこれですべてを説明できているとは到底思えません。
だから、自分が「包み隠さず」言ったかどうかというのは実際にはよくわからないことなのです。
とすれば、我々ができることは
「包み隠さずいう」という努力よりも
「包み隠さずいっていいよ」という努力です。
関係性を相対化する、というのは時には危険なものかもしれません。しかしながら、まさにそういう関係をこそ目指してみたいということもあります。
そういえばこの楽曲は珍しくお題が細かくでていました。細かくというか、古いインタビュー記事が送られて来たんですが。
だから歌詞にでてくる「男の子」などは、そういった時代や場所を固定した、フィロソフィーのダンスの歌詞の中では珍しい存在にもなっています。
7.シャル・ウィ・スタート
何かをはじめるというのはエネルギーを要します。
好きなこと、嫌いなこと、そのどちらであってももっとも大変で、そして人間的なのはスタートするときとおわるときではないでしょうか。それはこのアルバム全体を通したテーマにもなっています。
例えば物理的には、動き出してスピードをあげるまで、そして減速してとまるときというのがもっとも力を必要とします。
恋愛もまあそうかもしれないと思いますし、例えばアイドルグループをはじめるのだってそうでしょう。
メンバーにしてみれば、何もないところからまず何かをはじめてみるというのはとても大変な経験だったと思います。
さて一方で、「毎日がなにかのスタート」というような表現もあります。前向きなスローガンとして持つこともできますが、ある意味ではこのグループアイドルというのは必然的にそういうものになります。なぜなら、人と人との関係性というのは毎日必ず変わっていくから。もちろん、これまで築いて来た関係性がなくなったり、大きく変わってしまうことはないかもしれません。
でも、毎日のイベントにたくさんの方がきてくれたり、おいしいものを食べたり、知らない街にいったり、人は常にかわっていき、その変わっていく様子をみている人も変わっていきます。変わってしまうのは必然であるとしたら、変わったことを新しいスタートだと受け入れていくのは、隣にいる人たちの仕事です。
「始めませんか?」というのは「変わってもいいですよ」ということなんじゃないかなと思っています。
8.スピーチ
先日も結婚式がありました。人生の中には周りの結婚式が多い時期というのがあるらしく、僕はいまそんな時期かもしれません。
結婚そのものに意味があるのか、そんなことは時と場合、制度と関係、いろいろなもので変わって来ますしよくわかりません。「哲学者の妻は悪妻だ」という古代ギリシャからの伝統があるらしいので(だれが言ったか知りませんが、ソクラテス以来よく言われる言葉です)、既婚男性の哲学者がこの手のことに大した発言をこれまでできていないのだとも思います。女性の哲学者のパートナーにどんな方が多いのか、そういったことも特に有意なデータが手元にありません。
アイドルの結婚はどうでしょうか?これもあまり例が多くないので、「こういうものだ」ということは難しいかもしれません。別に「こういうものだ」というものを作る必要があるとは思えませんが、もし結婚したいのにできない、その結果として「こういう例」があまりないのだとしたら、それはちょっとなんとかしなければいけない不幸だな、とも思います。
この楽曲はいろいろなところで言及されているように
「新婦の親友が、結婚式でスピーチをしている」という設定を下敷きにしています。アイドルグループで結婚をテーマにした曲を、ということでもっとも自然に思えたのが親友の結婚を祝う友人としての結婚式でした。まあ結婚と結婚式はぜんぜん別物のようにも思いますが、その間をつないでくれるのは家族とか友人とか、そういうものなのかもしれません。
9.バイタル・テンプテーション
結婚式のあとにテンプテーション、というのもどうかと思いますが、バイタルなテンプテーションなんです。だから、許されるというわけではないんですが。
歌詞をさらっとみたら、たしかに不倫の歌のようにみえますよね(「不倫の曲」、という表現より「不倫の歌」と表現するのがいいような気がします)。
そういえば、どうして昔から不倫の歌がこんなに多いんだろう、と思っていました。大人は(僕ももう大人かもしれません)、「手に入れられない危険な世界を想像できるから」というようなことをいいます。叶わぬ恋とか、そういったものに憧れるのだと。でも本当にそうなのでしょうか。不倫の歌が多い理由は、多くの人がそれを不倫の歌だと勝手に思ったからなのではないか、と僕は思っています。
かつては不倫の歌が本当に多かった、とよく言われて、「みんな不倫ばっかりしていた」とかもしかしたら今も「不倫ばっかりしている」というようなのは結構聞かない話ではないです。しかしそもそも誰かが不倫するには誰かが結婚して居なければならないわけでそういう意味でいうと「みんな結婚ばかりしている」というふうにも思えます。どうしてみんなこんなに結婚するのでしょう。その割には結婚の歌はそんなに多くはありません。(どちらもこのアルバムには一曲ずつ、ということになるんでしょうか笑)
「気持ち悪いくらい好き」
というフレーズが出て来ます。これは一体誰の目線なのでしょうか。書いていたとき、僕は「気持ち悪い」のは好きになった方、好きになられた方、どちらでもありえると思っていました。
気持ち悪いということを日本語で「キモい」と省略する言い方があります。かなり人口に膾炙した言葉なので、ほとんど誰でもこの意味は知っているでしょう。
実際考えてみると、気持ちがいいでも気持ちが悪いでも「キモい」という省略は成立します。しかしながら、この省略は「気持ちが悪い」ことに使われるのです。
この理由を考えてみるのは面白いことのように思います。おそらくはそもそも「気持ち悪い」のほうが使用頻度が高いのでしょう。それはなぜかといえば、「気持ち悪い」というのは「気持ち悪い〜」というように形容詞的に使われることが多くなったからだと思われます。もちろん「気持ちいい」も「気持ちがいい人」というような使用はされますが、「人」以外にはあまり入る言葉はないように思います。気持ちがいいの使用は、基本的には「〜が(自分にとって)気持ちいい」という形で使用されます。「気持ち悪い形」というのはあっても「気持ちいい形」というのはあまり表現としては使われません。
ところが、これがまた不思議なことなのですが、音楽では「気持ちのいい音」というのがあります。(気持ちが悪い音というのもあります。音楽などではなく雑音の中でも気分が悪くなるものがあります)これはおそらく、「気持ち」というものに直結していると思われる五感との関係性なのでしょう。
実際に「キモい」という表現がされるもののその「キモさ」の大半は視覚情報によるもののように思われます。(キモい音楽というときは、あくまでも僕の体験の上では褒めているような場面が多いように思いました)。
翻って、「気持ち悪いくらい好き」といっているのはどういうことなのでしょうか。「気持ち悪く好き」と表現できない、というのはおそらくそういってしまうとそれは、前述したことから視覚的に「気持ち悪い動きをしながら好きということを表現している」というようなことになると思われます。それができないので直喩的な表現が使用されます。
あるいは、そもそも「好き」という表現より前に、好きになるものというのは「気持ちいい」ものなのではないかという主張もありえます。
もう少し論理の言葉で言えば
好きであることは、気持ちいいことの十分条件です。(好き→気持ちいい)
しかしその対偶をとれば
気持ち悪い→好きじゃない
ということになります。つまりもし「好き→気持ちいい」を認めてしまえば「気持ち悪いくらい好き」というのは論理的に矛盾した表現になってしまいます。
この曲には実はこんな仕掛けがここ以外にも随所につまっているので、ここまで各曲でかいた「論理」について考えながら読んでみると面白いかもしれません。
10.ヒューリスティック・シティ
https://yamamotosho.com/n/n822e1c6dbca1?creator_urlname=yamamotosho
こちらで単独項目として解説をしているので読んでみてください。
実はこのアルバムがもともと出る予定だった3/22(配信リリースはその日にされましたが)が4/5発売に変更になったことでひとつこの曲の歌詞の読み方の可能性も増えたかもしれません。
まだ次の名前だって
知らないけど、いいの
いつかみんなこの、名前を知ってるけど、誰もその名前の中にいない、つまりまだその「名前の『ことを』知らない」4月をまた思い出すのでしょうか。その時はこの曲のことも思い出せるんじゃないかなと信じています。
11.ライブ・ライフ
音楽がなくても、人は生きていくことができます。生物学的な事実としてそれは間違いないことです。
しかし人が生きていなければ、音楽は存在しません。自然音や、環境音はそれそのものでは音楽ではなく、それを「音楽」であるととらえ、鑑賞したり、録音したり、演奏したり、再生したりする人間がいてはじめて音楽として存在することになります。
言い換えれば、また論理の話ですが、
「人が生きていなければ音楽はない」
という命題が正しい、ということです。
だから、また対偶をとってみれば「音楽があれば人は生きている」ということにもなるわけです。しかしこれはどうにも気持ち悪い気がします。そんな高慢なものに音楽がなっていていいのか、僕には少なくともそんな度胸はありません。
だから、僕は
これを
「愛のある音楽があれば、人が生きているということだ」という文にしてみたいと思いました。
だから音楽と愛を歌うことが、実は生きることを歌うことになるというのは不思議な発見でもありますが、実に「気持ちいい」ことなのです。気持ちいい、というは前述した通り気持ち悪いに比べたら個人的なことなのだけれど、でもフィロソフィーのダンスの努力と躍進を見ていたり、あるいはこの曲のデモが送られて来た時、その折々で感じた「気持ち良さ」というのは表現されるべきだと思いました。
あとはもう、この曲を聴いてください。
12.ハッピー・エンディング
はじまったものはおわります。先ほどもかいたとおりはじめるのとおわるのは、どちらも一番のエネルギーが必要なものです。
単に物理的な対象だったら、はじめるのにもおわるのにも理由が必要ですが、「出来事」はむしろ理由なくはじまって、理由があっておわることがほとんどです。例えば出会いというのはほとんど偶然でしょう。それを運命だと感じたとしても。でも、別れには多かれ少なかれ理由があります。
さて、これは書こうか書くまいか悩んだのですが、楽屋話というのはこういうものだという話を最後にしてハッピーなエンディングにしたいと思います。
この曲が最初に送られてきたとき、とにかく歌のメロディ、文字数として考えられる部分が極端に少ないと思いました。英語でかけばまだしも、日本語でかくと文章にするのはほとんど困難なメロディです。でも良い曲ですし、かといって全編を英語にするというのはグループのこれまでの活動から逸脱します。
だから、新しい日本語にチャレンジしてみようと思いました。(まあみんないつだってしているだろう、という気もしますが)
日本語でロックミュージックを歌う、新しい日本語を歌う、ということになれば、作詞家として、ミュージシャンとして、考えることを避けて通れないのは「はっぴいえんど」の存在です。はっぴいえんどの邦楽史上における意味合い、その楽曲の素晴らしさなどについてはここで語ることではないですし、それについては別途触れられた多くのそちらも素晴らしい文献を参照してください。
ただ、間違いなくはっぴいえんどによって日本語でロックミュージックを歌うことへの新しい扉が開かれました。
つまり、この歌詞は僕自身が「新しい日本語詞」というものにチャレンジすることへのオマージュでもあるのです。
そして、それによって僕たちが手に入れたことは
エクセルシオールして、次の作品にもまた現れてくると思います。