「論破」したって意味がない

いつ頃からか「論破」という言葉がよくきかれるようになった。
基本的には

「相手の説を、議論によって打ち負かすこと、言い負かす事」

という意味で、「話が得意な人」という風に自負している人はこの論破が得意なようだ。例えば、新興宗教の勧誘を、「論破」して追い返した、ということを自慢していた知人をみたことがある。

ところが、論破などということは、実際にはしても意味がない。

意味がない、という言葉に意味が複数あるので、順をおってみてみよう。

コミュニケーションの問題


これは、多々語られていることだが、議論において(特に日本では)意見の対立は即、感情的な対立に発展する。

対立が生まれて、それ以上話が進まなくなってしまった状況は「議論」とはいえないだろう。

ところがしかし、この「コミュニケーションの問題」の意味での話は大した問題ではない。つまり、そういったコミュニケーションの仕方そのものに問題があるといわれればそうだし、実際感情的な対立そのものが必ずしも悪とはいえないからだ。

だいたい例えば会議で、何事も対立がなく円滑にお互い気を使いあって、進行していくのだとすれば、そんな会議はそもそもやらなくてもいいし(誰かが決めてそれをみんなでやればいいだけ)、仮にみんなの意見の折衷をしたとしても大概そんなものはろくなものにならないだろう。

 実際には、スムーズな議論が行われている場合、その裏で「根回し」「事前の確認」といったことが必ず行われている。逆にいうと、それを妨げるために議論と関係ない問題を突然入れ込んだりするというテクニックが存在するわけだ。国会などをみれば良い例だろう。

こんな記事もあるが、つまり円滑に話を進められるかどうかのために「論破」が邪魔になるという程度のことをいっているにすぎない。


正しさの問題


こちらが本題である。

「論破」するためには、まず論破する側の議論、説は正しくなくてはいけない。相手の説の誤りを指摘し(つまり「正しくない」ということを示し)その上で、正しい自説を示す。このことによって、相手の論が破られたことになる。

しかしこれが大きな問題を含んでいる。つまり、「正しい」というのはそんなに確固たるものではない、ということだ。


例えば、健康のためにはバランス良く食事をするのが正しい、という説を主張しようとしたとして、果たしてたとえば戒律で特定の食べ物しか食べられない宗教をもった人にそれを「正しさ」として、示すことができるだろうか。これがまさに最初にあげた例につながるのだが、

例えば「神」を信じる人を「論破」しようとして、

「神」という超自然的なものなど存在するはずがない、ということをどれだけ主張しようとしても、実際には

「あるものが絶対に存在しない事」を示す

のは非常に難しい。嘘だと思う人は、白いカラスが存在しないことを証明しようとしてみればわかる。


いや、しかしとはいっても「絶対に正しい事」もこの世のなかにはあるんじゃないか、という人もいるだろう。

たしかにそうみえるようなものもある。

1+1=2

という式は疑いようがないように思える。しかし例えば、これをつかって

1つの語を二つあわせて1つの語をつくることができる

という主張を論破できるだろうか。(念のためにいっておくと、漢字でこれをつくったものを「熟語」という)

こうやってみると正しそうにみえるものでも結構あやしい。

念のために、「正しい」を大きくみっつにわけて検証してみたい


1.形而上学的な正しさ
2.論理的な正しさ
3.規範的な正しさ

正しさには大きく分けてこのみっつがあるように思う。


まず簡単なところで


3.規範的な正しさ


からいうと、これはようはルールによって決まっている正しさのことだ。

法律でそう決まっているとか、先ほどの1+1=2というのもある意味では「数学のルールのなかでの決め事」と捉えることもできるかもしれない。(数学が規範的なものかというような話、この辺りはかなり難しい話なので、あまり深入りはしないが)

これらが「論破」の役には立たないことは、前述したとおりだ。

つまり、ルールが違うもの同士が話した場合、そのルールを適応した「正しさ」の議論に意味はない。バスケの試合で、サッカーのルールを適応したら、全員即刻ハンドで退場になってしまう。

いくつか反論が考えられるだろう。例えば、「誰もがもっているといえるルールがあるんではないか」とか、もしくは「ルールを確認した上でなら可能になる」とか。

しかしこれはどちらも的外れだ。なぜなら、そのような「誰もがもっている」「ルールを確認している」ということそのものが「規範的な正しさ」を含んだものであって(つまり、誰もがもっているルールであるかどうか、あるいはルールを確認できたかどうか、ということ自体がルールで正しさをきめることだから)、結局はそれらもこの限界からは逃れられない。


2.論理的な正しさ


こちらはもう少し骨があるかもしれない。

たとえば、

A「道路を歩行する際は信号を守らなければならない」

B「赤信号は進んではいけない」

 というルールがあったときに、

C「道路を歩行する際は、赤信号では進まない。」

という結論を導くことができる。

この際には、ただこのA,Bというルールから論理的に「赤信号では進まない」というルールを守らなければいけないということが導かれるわけで、
例えばそこに

「車が通っていなかったから、渡っても構わない」

というような理屈ははさまれる余地がない。これらはあくまでも「論理的」に導かれた結論で、我々は論理的に導かれるものに関してはそれが基本的に必ず成り立つと考えて行動している。
(だいたいそうでないと、例えば上のようなルールがめちゃくちゃになってしまい、まともに生活できないだろう)

あれ、でもこれって規範的な正しさと何が違うんだ、と思うかもしれない。実際にA,Bというルールは(まああえてルールとかいたのだからわかるとは思うが)「規範的に」のみ正しいといえるような文だ。実際、これは道路交通法とか、そういったルールに書いてあることだろう。そしてそこから導かれるCも結局は、規範的なものということになる。

だから、実際にはここで「正しい」といえるのは

「A,BからCがいえる」

ということだけなのだ。

ちょっと難しいかもしれないけれど、これはCが正しいとか正しくないという話とは少し違う。こういうような議論をすることは正しいだろう、ということをいっているに過ぎない。だからもしこれを仮にうまくつかったとしても、AやBが規範的な正しさだった場合、そもそもそれによっては論破などできないということは前に述べたとおりである。

あるいは、こういう風に考える人もいるかもしれない。そもそも、論理だって規範じゃないか、ということだ。

例えば上にあげた論理はいわゆる

「三段論法」

というやつで

αならばβ

βならばγ

よってαならばγ

というやつだ。(αやβには文が入ると思えばよい)

これは基本的に必ず成り立つように思われる。しかし実際には、本当にそれが必ずどんなときもなりたつのかはよくわからない。というか、別にこれを成り立たないという風にそもそもルールにしてしまったら、それはそういうルールのもとでは当たり前だけれど成り立たないことになる。

論理の中でも一番絶対に疑いようがないのは

αならばα

というやつだ。これはトートロジーといわれていて、まあさすがにこれは疑いようがない気がするだろう。(実際にはこれすら別に疑うことができないわけではない)

そういえば、よく議論が行き詰まったり感情的になると

「そうだからそうなんだよ」

みたいなことを言う人がいる。そしてそれが「論理的」には正しいとしても、何の意味もないことは、すぐにわかるだろう。


1.形而上学的な正しさ


あとはもうこのどれでもない正しさの話だ。

しかしもう残り何かあるだろうか、という気がするが実際にはこれが唯一もしかしたら、論破することの意味を見出せる正しさかもしれない。

たとえば「道徳」などはこれにあたるように思う。

道徳的に正しいということは、規範ではなく、また論理でもない。しかしそのような正しさは確かに存在している、と考える人が多いだろう。

このような場合においてのみ、「正しくない」ものに対して、正しいものの正当性を主張することには価値がある、というような意味で「論破」に意味を見いだすことが可能かもしれない。

「道徳」の観念をもっていない人には、無駄ではないのか、という反論もありえるだろう。むしろこのような場面での「論破」こそが、普通考えられているような論破とはもっとも程遠いように思う。

しかし、実際ここまでを振り返ってみるとこういう論破以外は意味がないのだ。


(よくある)論破をしたって意味がない。どちらもそれほど正しくない。


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