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「夜船」

ヤマモトショウ

 新幹線が次の停車駅を知らせるアナウンスをはじめた。向かい側の席周辺の団体客らしい若者たちが、がやがやと棚の上の荷物を取り出しはじめたあたりで、わたしは大学生のころ知り合いというよりは少しだけ親しかった友人の同級生男子がいっていた言葉を思い出した。いわく高校生の頃、一瞬だけ進学先を京都にしようと思ったことがあるらしい。大学生になってから考えてみればほとんど理由はない。なんとなく京都という街に憧れがあったのだ、と彼は言っていた。京都という街への憧れはわからないこともない。彼の話を鵜呑みにすれば京都は学生として住むならば居心地のいい街だが、社会人になってから住もうとすると外から来た人間にとってはある種の難しさがあるということだ。考えてみると、大学生の頃全国の色々なところから学生が集まっていたけれど京都から来たという同級生にはついぞお目にかかったことがなかった。
 新幹線の隣の席には作詞家の猫宮がいる。もうすぐ駅につくというのに動き出す様子もなく、東京でこの席に座ってからすぐに読みはじめ、そこからほとんどずっと読み続けている本にやっと栞を挟んだくらいのところだった。カバーがされていて表紙はみえないが、ちらちらと見る限りではどのページにも数式が出て来ているようだ。そういえばそもそも彼は、京都でいきたい本屋がある、と言ってめずらしくこんなに遠くまでやってきているのだ。彼のスタジオにおいてある本は、おそらくすでに彼自身がすべて読んだものなのだろうが自分がよんだことのあるものは今まで一冊も見かけたことがなかった。
「京都で、何か探している本があるんですか?」
 わたしがそう聞くと猫宮は本から目線を外すこともなく答えた。
「本なら、いつもなにかは探しているんですけどね。知り合いがやってる店なんです。前から一度来て欲しいって言われていて」
「京都で本屋さんを?」
「うーん、本屋なのかな」
 本屋ではないのに、本を売っているというのもよくわからないがまあないことでもないかもしれない。猫宮の交友関係は、ほとんど自分の想像の範疇にない。彼に出会うきっかけになった私の大学時代の指導教官、猫宮からすれば大学の先輩にあたる佐倉という人もわたしの知り合いの中では一番といってもいい相当な変わり者だった。
「じゃあまずついたらそこですか?」
「ええ。終わったら、渋谷さんと合流しますよ。」
「わかりました。私はたぶん、しばらくは同じところで待つことになるんじゃないかなと思ってます」
 
 京都駅を出て、調べてあったバスに乗る。わたしがバス停の横についてすぐに、バスが入線してきた。幸いにもまだそれほどは混んでいないが、それでも並んでいる人が全員入ればバスの座席は埋まるくらいだろうか。時間は13時を少しすぎたところだ。さすがにまだ来ていることはないだろうが、今日この後どのくらい待つことになるかもわからない。暇つぶしのためにと思って、普段は全く読まない文庫本の小説を持って来ていたことを思い出した。バスの中で本を読むのは中学生のときの修学旅行以来やっていない。びっくりするくらい気持ち悪くなったことを思い出して、本のことをはいったん忘れることにした。
 市営バスで目的の出町柳駅前までは30分ほど。駅というくらいだから電車でも来られたのだろうし、おそらくそのほうが早かったようには思う。なんとなく京都の街を車で動く方がいいだろうと思ってバスにしたが、もしこの間の時間に彼女が来て、そして帰ってしまっていたら大失敗だ。バスは鴨川の横を順調に進んでいた。観光客らしい外国人たちが行き交っているエリアを少しこえて、おそらく目的地と思われる川が二つに別れている箇所が見えて来た。
 この鴨川デルタと言われる場所あたりで、例のシンガーソングライターを初めて見たのは1年ほど前だったと思う。珍しく友人と旅行に、ということになり、彼女が京都にいこうと言い出した。2日目だっただろうか、一度京都大学を見てみたいということになり、この辺りを歩いていたときにちょうどシンガーソングライターらしき女性が鴨川公園、いわゆる鴨川デルタといわれる場所(名前はあとでしったのだが)で演奏をしはじめるところに出くわした。わたしはレコード会社のディレクターという仕事柄か、いやそもそも趣味であってもそうなのだが、路上ライブなんかにもできるだけ耳を傾けてるようにはしている。と言っても大半はカラオケレベルか、なんならそれ以下のコピー曲ばかりだ。どうして中島みゆきの「糸」を必ず歌うのだろう。使用料は払っているのだろうか、とかそんなことくらいしか気になることがないようなものばかりだ。しかしなんとなくその日は彼女の佇まいに心をひかれて、足をとめた。
 今思い出しても、鳥肌が立つ。いや、むしろ鳥肌が立ったというその記憶を取り戻そうとするたびにまた別の鳥肌がたっているのかもしれない。よく路上ライブであるような、うまいだろう、と言わんばかりに声を張り上げたものでもなければ、またこれも路上ライブにありがちな下手だけど頑張っている私をみてほしいというようなものでもない。歌も、曲も淡々と進んでいった。今改めて考えてみると、歌い手の表情があまり思い出せなかった。それほど曲にのめり込んでいたのか、それとも何か他に理由があったのだろうかと私はここにくるまでの道中で自問した。髪は随分と長かった。服装はこれといって目立った特徴はない暗い色のワンピースだったと思う。だいたい、東京でも路上ライブでは自分の名前をかいた立て札のようなものをおいて歌っているのがほとんどだが、そんな情報はなかったと思う。
 鴨川の川沿い、彼女がいたと思われるあたりの場所まできた。おそらく一年前もこのくらいの人通りだったと思う。向こう岸では、そちらも何か弾き語りをやっているように見えたがそちらは男性だから彼女だということはないだろう。あのあと、ネットで彼女の消息をたどろうとしたがそれらしき目撃談がTwitterであったくらいでほとんどちゃんとした情報を見つけることはできなかった。少なくともネット上で定期的な活動をしているわけではないのだろう。それはわたしとしてはありがたいことでもある。もしうちの会社と契約して、リリース、ということにでもなればその方が条件としてありがたいからだ。もちろん、社内で話題にあがったときになんの実績もないのは不安視されることも多いのだが一年前にきいたあの曲ならかなり可能性はあるといっていいだろうと思う。しかし今のところそんなことを考えても、まず彼女が今どこにいて、しかも今も活動しているのかどうかの保証もないのだ。とりあえずできることといえば、前に彼女をみたこの場所にくることくらいだった。
 10分ほど、川沿いでじっと道ゆく人を見ていた。そういえば前回は結局、ここでしばらくとまっていたこともあって京都大学にはいかなかったな、と通り過ぎて行く学生風の男の子のグループをみて思い出していた。今後も、何か理由がなければいくことはないだろう。何か理由を考えられるだろうか、そういえば昔好きだったバンドのライブ盤が京大の講堂で演奏されたものだったような気がする。ライブでもなければいかないだろうか。要は、なんだってそんなことならいつでも、と思うようなものでもその一回のチャンスを逃したらもう一度というのはほとんどないのだ。あの時、歌っていた彼女に声をかけなかったことの理由は今考えてもよくわからない。一緒にいた友人が、先にいってしまったからだ、といえばそれまでなのだけど、おそらくあとで調べればわかるだろうと思ってしまったこととか、そういう風に音楽をきくのが当たり前になっていたからかもしれない。それに、つい最近までそのことを思い出さないようにしていたのも事実だった。
 もう一度あってみたいと思ったのは、この一年ほどの間で自分のまわりの信頼できるディレクターやマネージャーがいうところの「才能あるミュージシャン」というのを何人か見てきて、彼らが自分たちのみつけたその才能を「どういう風に信じて」仕事をしているかということを見てきたことがきっかけだった。正直にいって自分には理解できなかったアーティストもいた。しかしそれにはちゃんとした理由があったし、それはそういうものだと説明することができたのだ。つまり、仕事としてやっている以上はその「才能」をきちんと説明することができるだろうと思えたわけで、逆にそのように思い返し得てみると唯一一年前にあった彼女だけが自分にとってまだ「説明」されていないアーティストなのだ。だからもう一度あって、もし本当に才能があるのならそれを確かめてみたい、と考えた。もちろん、こんな風に理屈立てて考えるまえに、そもそももう一度あのとき聴いたあの曲を自分の耳で確認してみたい、もう一度聴いてみたいという気持ちになっているのは間違いなかったのだけれど。
 ここに来ればもう一度あえるような気はしていたが、現実はそんなには甘くないようだった。事前にSNSでこの辺りの弾き語りアーティストの情報もしらべてみた。すでにお目当以外のアーティストが向こう側で演奏しているように、このあたりはそこそこの数のミュージシャンが自作曲と思われるものを披露しているらしい。もしかしたらこの中にも将来のビッグアーティストがいるのかもしれない。しかしながら、それをぜんぶチェックすることは難しい。よく世間では、メジャーレコード会社は売れそうなものだけに手を出して、才能あるアマチュアアーティストを発見したり、育成したりといったことをやっていない、というようなことが言われているらしい。そういえば、わたしも会社に入る前はそう思っていた。わたしの知っているインディーズのバンド、なぜこのバンドを見つけてメジャーデビューさせないのだろう、絶対に売れるはずなのに、と思ったことは何度もあった。しかしながら、それは実際には半分くらいしかあたっていない。実際にはメジャーレーベルだって、本当にたくさんの数の新人たちのデモ音源を聴いているのだ。中には地方まで毎週のようにライブを見に行ったり、ネットで1日何時間も探しているようなディレクターもいる。その中から、デビューするのはほんの一握りだし、デビューした中から世の中の人が「売れた」と判断できるようなところまでいけるアーティストはさらにごく一部だ。だから、結局ほとんどの(大学生の頃のわたしのような)人にとって、自分のお気に入りのアーティストに目を留めないレコード会社も、売れない世の中もおかしい、ということになる。
 わたしの尊敬する先輩ディレクターも、驚くべき行動力でアーティストを探していた。今年の初め頃も、静岡の山奥にまでいって見つけてきたし、わたしもそれに付き合って、再訪する際には山登りまでつきあって歌を聞きにいったりもした。自分がそこまで熱意をもってアーティストを探す、ということをしっかりやってみたいと思った一つのきっかけがそこにあったことは間違いないだろう。それで思い出したのが一年前の京都でのことだったのだ。
 それにしても、もう秋といってもいい頃合いだが、外でしばらく立ち止まっているだけでも汗ばんでくるような陽気だった。京都は盆地で、夏は暑いらしい。どうしてそんなところに都をつくったのだろうか。貴族の生活には関係ないということなのかもしれない。平安時代のお屋敷、寝殿造りというのだっただろうか、は作りが豪奢で大きく、部屋数も多かったからか、特に奥の方に住んでいる貴族はずいぶんと日の光から遠いところに暮らしていたという話も聞いたことがある。昼間でも、ろうそくをつけていたとか。平安時代に美人とされる顔が極端な白塗りだったのも、そんな暗くぼんやりとした場所でもよくわかるようにということだった、みたいな話をきいたことがある。それなら、なおさら涼しい地域のほうが良さそうだが、京都に遷都したから平安時代になったわけで寝殿造りなんかができたのはそれよりもあとのことだっただろうか。
 歴史の長い街にいると、考えを巡らす材料だけは尽きないように思えた。目の前にはまた一人弾き語りらしい大学生くらいの男の子がギターを持って現れた。準備もほどほどに曲を弾きはじめたので、少しきいてみたがどうやらカバー曲のようだ。タイトルは思い出せないし、どうもチューニングのせいかギターの音程も甘い気がして、長いこと聞いていたいと思うようなものではなかった。このままここで待っていたら、聞き入っていると思われてしまうだろうか。
「聞いてるの?」
 横から声が聞こえた。聞こえた、と思ったのはそれが自分にかけられた声なのかわからないものだったからだ。あの歌っている男の子には聞こえないくらいの声だったとは思う。はっと、横を向くと顔よりも随分と大きくみえる黒いサングラスをかけた女性がいた。身長はわたしと同じくらいか少し高く、髪はわたしと比べなくてもかなり長いといえる綺麗な黒髪だった。まるで平安美人のような人、といいたいところだったがそれは褒め言葉になるのだろうか。それにさすがに地面につくような髪の長さではなかったし、彼女のメイクは目はサングラスで見えないにしても、全く今風の自然なものに見えた。
「えっと、いえ、ここにいるだけです」
「こっちだよ。」
 そういって、その女性は歩き出した。数歩歩いてからまたこちらのほうを向いて、首をくいっと動かす。こちらへこい、というジェスチャーだろうか。もちろん、この低レベルなカバー曲をこれ以上聴いている理由もなかったが、例のシンガーをここで待つためにきてまだ1時間と少ししかたっていない。しかし、この女性についていったほうがよさそうだという不思議な直感も働いていた。少なくとも今、このあたりで歌っている誰よりも雰囲気があるように思えた。
「あの」
 少し歩いたところで私は話しかけた。
「何?」
 女性は顔をこちらに動かすこともなくいった。もっともサングラスの中の目線まではわからなかったが、おそらくこちらを見てはいないだろう。
「いえ」
「わざわざ見るならもっといいもの聞かないと。もう少しでこの辺りにくると思うから」
 わたしが元いた場所から100mくらい動いた場所で女性は立ち止まった。鴨川の上を通る橋からはそれほど離れていないが、さきほどの場所よりもさらに人通りは少なそうだ。言われなければこの場所には立ち止まらないだろう。
「あの、ここに誰がくるんですか?」
「たぶんきょうはくると思う」
「もしかして、20歳くらいの女の子ですか?ショートカットで、えっとたしか狐?の歌を歌っていた」
「狐の歌?」
 そういってその女性はやや怪訝そうな顔をした。
「はい。前にそういうアーティストを、見たことがあってそのときに歌っていた曲はたぶん、私が聞く限りでは歌詞で狐をみたっていうくだりが出てきたと思うんです。それでどうしてももう一度会いたくて」
「さあ、どうだったかな。そんな曲があるのか知らないし、そもそも1日一曲ずつしか歌わないからね、あの子。わたしは狐の歌っていうのはきいたことがないし、何回かみたうちで同じ歌を歌っているのも聞いたことがないから。でもまあこの辺りでそんないい曲歌ってる子がそんなにたくさんいるとも思えないしね。あなた、もしかして、その前見たって子をみるためだけに、来るかもわからないままあそこで待ってたの?」
「はい」
 わたしはそういって、自分の名前を名乗った。目の前にいるこの人が誰なのかもわからないが、少なくとも何も情報がないなかで、多少なりとも自分の求めているものに近そうな話が出てきたのだ。
「きっと渋谷さんが探してるのは彼女だと思う。」門倉と名乗ったその女性はそういった。「もうすぐこの辺りにくるよ。まあ今日は現れないって可能性もあるけれどね」
「門倉さんは、彼女のことをよく知ってるんですか」
「ぜんぜん。一度このあたりでみかけて、タイミングあってその後何回か。このあたり弾き語りとかやってる子も多いけど、まあ正直もう一度きこうっておもえるのはほとんどいないし。」
「あの、なんでさっきは私に声を」
 そういうと門倉は、ちょっと困ったような顔をしていった。
「うーん、まあ別にこれっていう理由はないんだけどね。ただ、ほらさっきも言った通りこのあたりでそんなたいした人っていないんだけどさ、だからどちらかというと立ち止まって聴いてる人がいるだけでも注目しちゃうっていうのと、あとはむしろその立ち止まっている人がどんな人なのか、私はそういうのが気になっちゃうんだよね」
「なるほど」
 しかし、だからといってそれで声をかけたりするだろうか。まただいぶ変わった人物のようだ、と思ったがそれを見抜いたかのように続けて門倉がいった。
「で、渋谷さん、あなたはあの向こうで歌ってた彼をそれなりの時間見てはいるんだけど心ここに在らず、ぜんぜん別のものを探しているような気がしたってわけ。それも、もっと別のいいものを探すために動いているんじゃなくて、何か具体的にもっと別のものを探している、って感じで」
 それがパッと見てわかったということだろうか。だとしたらこの門倉という女性、油断がならない人物だ。まあ今の状況で油断もなにもないのだけれど。
「バレバレですね」
「まあ声かけてみたのは、あなたがなんかかわいかったからってのもあるんだけど。」
「え?」
「少なくとも歌ってた彼よりは魅力的だったかな。もしかしてそういう仕事してる人?」
「そういうって、どういうことですか?」
 わからないふりをして聴いてみる。
「芸能系とか」
「遠くはないです。裏方ですけど」
「ふーん、やっぱり。」
「あの、彼女のこと、できれば他にも知ってることがあったら教えてもらえませんか。実はわたし、きょう東京から彼女を探しにきたんです。以前いちど偶然きいたことがあったんですけど、そのときはコンタクトがとれなくて。でもやっぱり、もしできたらうちの会社からリリースできたらと思って。でもネットで探しても、ほとんど情報がないし、それでとにかくここまできてみたんですけど」
「行動力あるんだね。それに、見ず知らずのわたしにそこまで話すなんて」
「変ですか」
「いや、いいんじゃない。それに、たしかに彼女はそれだけの価値はあるんじゃないかな、と私も思うよ。そうだね、私がみたのは全部で何回だろう。まあまだ来ないみたいだし、あそこのコーヒーでも買って待つのはどう?結構おいしいよ、あそこ。わたし買ってくるから」
 門倉は、道路の向こうにあるカフェをさして、歩き出した。
「え、あの」
「まあまあ」
 そういって門倉は店のほうに歩き出した。一応その間もまわりをみてチェックは続けていたが、4、5分経って門倉が戻ってくるまであのシンガーが現れる様子はなかった。
「はい、どうぞ」
 門倉はそういってコーヒーの紙カップを渡してくれた。暑かったので何も聞かれなかったが、彼女が買ってきてくれたアイスコーヒーをもっただけで、手のあたりから体全体がほんの少し涼しくなった気がした。それでももう、氷がとけてカップには水滴が付いている。
「あそこの店に時々来るんだけど、ちょうどそのときに見かけたんだよね。はじめてみたときはもう歌のおわりかけ。あれ、最後の曲だったのかなとおもったけどそのちょっとがすごくよかったからずっと覚えてて。それで、もう一回たまたまみかけたときはちょうど始める前だったから、立ち止まってそのまま聞いてみたの。そしたらそれもすごくいい曲で。ギターの弾き語りだけであれだけいい曲っていうのはめずらしいなと思って、でもその日も結局それ一曲でおわって彼女はすっと帰っちゃった。そのあともここに来るたびに気にはしていて、必ずいるってわけじゃないけど前にいたのは水曜日と金曜日。きょうも水曜日だから可能性はあるかなと思って」
 門倉はそこまでいって、コーヒーに口をつけた。わたしもそれに続いた。たしかに彼女がいうようにいい味だった。
「なるほど。でも、話を聞く限りわたしがあった子でおそらく間違いないと思います。わたしもそのとききちんとは確認できなかったんで、どうなのかなと思ってたんですけど、やっぱり一曲しかやってなかったんだと思うんです」
「ええ、しかもわたしが聞いた2回は少なくとも違う曲」
 ちょうどそのとき猫宮から「用事がすんだので、そちらに向かう」というメールがあった。門倉と話を続けながら、現在地を猫宮にメールでそのまま返信する。
「ぜんぶいい曲でした?」
 わたしは、メールに少し気を取られたせいかずいぶんと中身のない質問をしてしまったことに気づいた。
「どうかな。わたしはそう思ったけどね。それに違うっていっても、やっぱり人って似たようなところがでるじゃない。たぶん、あれは彼女のオリジナル曲だと思うんだけど」
「ええ、そうでしょうね」
「だったら、やっぱり彼女らしさというか、そういうのがどの曲にも共通して出て来るでしょ」
「はい。でもそれが」
「個性ね」
 門倉はそういって笑った。わたしもつられて笑う。もしかしたらこの人とは気が合うかもしれないとふと思えた。
「でも、もし毎回新曲なんだとしたら、それはちょっとすごいですよね」
「そういうもの?」
「ええ、もしわたしがきいたあの一曲のような、そんなレベルのものをそれだけつくれているとしたら」
 ただ、もしそうならばさすがにもっと話題になっていてもおかしくないのかもしれない。とはいえ、ネット上もふくめて本人にはその気がなさそうなことはその活動スタンスからも明らかなようだから、ただたんにそれだけのことなのかもしれない。どちらにしても、わたしはあのとききいたあの曲も、そして新しい曲のどちらをも、とにかく聞いてみたいという気持ちになっていた。
「デビュー間違いなしって感じかな?」
「そうですね」
「でも、この辺りで他に、もしそれだけのミュージシャンなんだとしたら、わたし以外にも誰か存在に気づいていてもよさそうだけど」
「誰もいないんですか?」
「さあ、わたしにはわからないけれど。でも、いつも何人かしか聴いてないから。まあ弾き語りなんてそんなもんだと思うけどね。それにほら、だいたい夕方の4時とかなんか中途半端な時間なんだよね、しかも平日だし。どれだけよくたって、聴いている人がいなきゃ意味ない、でしょ?」
「ええ、まあ」

 そのあとはしばらく、門倉と雑談をしていた。20分くらいだろうか。先ほどはじめてあったばかりの人間と何を話すのがいいのか、あとで考えればよくそんなことをしたものだと思ったけれど、わたしはここ最近出会ったミュージシャンたちの話をした。門倉はどれも「へえ」と興味があるのかないのかギリギリわからないくらいの反応で、それを聴いてくれていた。ただ待ってるよりは随分と良かったし、門倉がここ最近私の関わった曲をどれも聴いたことがあるようだったのには驚いた。
「わたし、結構音楽は雑食だから」
「でも、それ言う人で本当にちゃんと色々聴いている人に出会うことあんまりないですよ」
「なんでも聞きます、ってやつ?」
「はい」
「なんでも聞くわけないからね。たとえば私も、レゲエは詳しくない。まあなんでも聞きますなんて言う人は、大抵他に言うことがないだけだか」
 アーティストなどでも、たとえばインタビューで好きなものをきかれて「なんでも」と答えるような人は面白くない、というのは定説としてたしかにある。
 しばらく話していると、10mほど離れたところにギターをもった少女が現れた。少女、と表現するのがよいだろうと思われるくらいに、自分の想定よりも幼くみえたがそれでも一年前にみた彼女に間違い無いだろう。曲の印象がつよすぎて、その人物に対するイメージが本来とは別の形で固定化されることはよくある。つまり彼女の歌はもっと大人なものに思えていたのだ。
 ひとりで持つには少し重そうなセミハードケースから、アコースティックギターを取り出してチューニングをはじめる。右手には銀色に光った音叉を持っているのが見えた。
「ぴったり間に合ったってところですか?」
 ほとんど同じタイミングで横から声をかけられる。猫宮は、ちょうど良いところにやってきたようだった。
「あ、猫宮さん、ちょうどばっちりですよ。あの子です、わたしが見たのは。」
「ふうん。それはよかった。もうちょうどギリギリでバスに乗れたから。一本逃してたら危なかったかも。」
 猫宮はそういいながら、わたしのとなりにいた門倉のほうをみて、おや、と言う顔をした。
「猫宮くん」
 門倉が猫宮に話しかけた・
「あれ、マコさん?どうしたんですか、こんなところで」
「え、お二人、お知り合いなんですか?」
 わたしは驚いて思わず、どちらにいったのかわからないくらいの大きな声を出してしまった。ほんの少し、ギターの少女がこちらをみたような気もする。
「むしろ、どうして渋谷さんとマコさんが一緒にいるんですか?」
「いや、それは」
 そういって、猫宮から門倉に視線を動かすと、
「渋谷さんと一緒にきてたのって、猫宮くんだったんだ。なるほどなるほど。」
「えっと、お二人は」
「あ、そろそろ始まりそうだよ」
 門倉がそういうやいなや、少女がギターのアルペジオでフレーズを弾き始めた。


 五分ほどの旅がおわって、少女はもうギターをケースにしまおうとしていた。わたしは、まだどこかから帰ってこられなさそうな自分を必死呼び戻して、急いで彼女のもとに向かい声をかけた。
「あの」
 わたしが声をかけると、ちょうどしまいおわったギターを持ち上げようとした少女がこちらを向いた。
「はい」
「素晴らしい、ライブでした」
「ありがとうございます」
 少女はほんの少し目元と口元だけを動かして、笑ったようにみえた。歌っている間はほとんど無表情だったので、見せなかった顔だがとてもかわいらしい。わたしも、顔が緩んでいただろうと思う。
「あの、以前にもここできいて、きょうなんとか探してここにきたんです。でも名前もわからなくて」
「ハナです」
「ハナさん、という名前で活動されているんですか?」
「活動?ええ、ずっとその名前です。たぶん、うまれたときからずっと」
「わたし、渋谷かえでといいます。東京のレコード会社ではたらいています。」
 わたしはそういって名刺を取り出そうとした。
「かえでさん、きょうはありがとうございました。最後まできいてくださって。あちらにいらっしゃるのは、かえでさんのお友達ですか?」
 ハナはそういって、猫宮と門倉のほうを見て、かえでの返事を待つことなくそちらに歩いていった。ふたりと一言二言はなすと、そのままこちらを振り返らずに去っていこうとした。
「ハナさん!」
 わたしが呼びかけると、ハナはいったん立ち止まってこちらを振り返りいった。
「明日も、ここで」
 ハナはそういいながら、今度はもうこちらを振り返ることもにないだろうという様子のままで立ち去っていった。

「どうでした?」
 わたしはそういいながらも、相手の反応をなかば確信していた。大胆にいうならば、これにノーと言うのならば、一緒に仕事をするのは今後も難しいだろう、ということでもある。
「素晴らしい」
 猫宮がいった。それ以上の言葉は必要ない、とでもいうような余韻の少ない、猫宮には珍しいいい切り方だった。
「ですよね」
「前にきいたのと同じ曲でしたか?」
「いえ、違う曲です。すべてを覚えているわけではないので、そう思う、ということでしかないですけれど」
「前にきいた曲と比べたら?」
「どちらも素晴らしいです」
 わたしはそう言いながら、門倉のほうをみた。その少女が歌っている間、門倉は腕を組んだまま微動だにせずにいた。曲がおわると、一度大きくうなずきそして拍手を送った。その一連の動きが、曲の一部のように綺麗に見えてしばらくみとれたがわたしもやや遅れて拍手を送ったところだった。
「わたしが前きいたのとも、また別の曲。どれもよいけど、きょうが一番よかったかもしれない」
 門倉がいっていたように、きょうも演奏したのは一曲、そしてそれは今まで我々がきいた曲とは別の曲だったようだ。いったいどれだけオリジナル曲をもっているのだろうか。すべてがこのクオリティなのだとしたら、本当にすごいことになる、といってもいいだろう。
「えっと、じゃあわたしはここで。猫宮くんも、また近々あいましょうね。もしかして、しばらく京都にいるのかな?」
「明後日までは」
 猫宮が答えた。じゃあ、といって門倉はハナが消えていったのと同じ方向に少し小走りで去っていった。去り際に、わたしに名刺のようなものを渡していったが、そこには「門倉マコ」という名前と、LINEのIDが書いてあるだけだった。わたしは仕事柄、すぐその場で登録してメッセージを送る。既読はすぐにはつかなかった。
「ハナさん、あしたもくるみたいなんで、今度こそはちゃんと話をしないと。でもどこの事務所にも入ったりしてないのかな。あれだけの音楽をつくっていて」
「さあ、どうでしょうね。まあ毎回ああやって一曲しか歌わないということなら、なかなかそれに気づく人も少なそうですけど」
 猫宮はそういって、ハナが歌っていたあたりを眺めていた。
「たしかにそうですね。あ、それにしても猫宮さん、門倉さんとお知り合いだったんですか?」
「うん、まあ知り合いといえば知り合い。渋谷さんとも知り合いとは知らなかったな」
「猫宮さんでも知らないことあるんですね」
 そういうと猫宮は笑いながらいった。
「もし全知全能、あらゆることをしっている神様がいたらさぞ大変でしょうね。」
「え?」
「例えば僕は今、突然全知全能の神について話し始めたわけですけど、このことについても全知全能の神は知っていなければならない。毎秒、どれだけの数の新しいことが増えていくのか、考えただけでも酔ってしまいそうだと思いませんか?」
「神様だったら、そもそも何がおこるのか最初から全部知っている、ってことじゃないんですか?新しく知るとかじゃなくて」
「神様はまだそこにないものも知っている、ってことですね」
「はい」
「だとしたら、作詞とか作曲は神様からの盗作、ということになる」
「ああ、たしかに」
「まあそんなことはともかく、僕は少なくとも全知全能ではないから、渋谷さんの知り合いを全員しっているわけでもありません」
 わたしは門倉に突然声をかけられたところから、先ほどあったことを猫宮に話した。
「いや、あの、すいません。門倉さんは、さっきここで知り合ったばっかりです。私が別の弾き語りの人をもうちょっと向こうでぼんやりみてたら、こっちにもっといいシンガーがくるからって」
「へえ。じゃあマコさんは、例のハナさん、彼女のことを元からちゃんと知ってたってわけですね」
「ええ、そうみたいです。どうして、わたしに声をかけたのかは、本当か嘘かわからないようなちょっと変な理由をいってましたけど。ハナさんのことは、このあたりにコーヒーを飲みにきた時に何度か見たって」
「ああ、そのコーヒー」
 猫宮はわたしが手に持ったままになっていたプラスチックのカップのロゴを見ようとしていた。
「え、ええ。あ、そうだ結局門倉さんにおごってもらっちゃう形になってしまいました」
「ああ彼女はまあ、今はお金持ちだからたぶん大丈夫ですよ」
 猫宮はこともなげにそういった。
「そうなんですか?」
「さて、どうしましょうか。明日も、ここにはくるとして、同じ時間でいいんですかね。」

 その後は猫宮と話しながら歩いて京都市街の中心地、四条あたりまでもどった。そのままの足で、二日間宿泊する予定の宿にチェックインする。いつも出張の時にとまるような普通のチェーン系列のビジネスホテルだったが、京都だからか少しほかの場所にあるものとは内装がことなるようにみえた。猫宮にも「僕もおなじところでいいんで、部屋をとっておいてもらえますか?」と前もって言われていたので、別のフロアで部屋をとってあった。アーティストと地方にいったり、ということもよくあったのでこの辺の段取りは自分でも手馴れていると思う。会社からも猫宮が一緒だというと、それで予算も降りていたが、猫宮からは出発前に宿泊費を無理やりに渡されていた。
「明日は朝ごはんでも食べに行きましょうか。ちょっと行ってみたいところがあるんです」
 猫宮はそういって、ホテルのロビーで解散した時にはまだ一六時だった。今から準備して観光にいくにはちょっと遅いかもしれない。京都らしいところはもう閉まっているだろうし、食事にはまだちょっとはやいような気もする。猫宮を誘ってみようか、とおもったけれど「朝ごはんを」というからには、夜の間はもう声をかけないでくれ、ということかもしれない。彼がそんなまわりくどいことをいうとも思えないが、なんとなく今解散したばかりで声もかけづらい。
 部屋にはいって靴を脱いで、ポケットからスマホをとりだした。私たちの仕事も、今どこにいてもこれさえあればほとんど片付いてしまう。そういえば、大学生の頃はICレコーダーのようなものをもって、取材の真似事をしていたことがあったが今ではボイスメモのアプリで十分だろう。そのまま、別のアプリをつかって編集することもできる。
 実は先ほどのハナの演奏を録音してみようか、と一瞬おもってボイスメモを準備していた。それは実際、端的に言ってマナー違反だろう。しかし、彼女の歌を次に本当にいつきけるかは定かではないとおもって、準備をしたのだ。実際には私の倫理観がそれを上回った、というわけでもなく単に歌を、曲を聴くのに集中しすぎてしまって録音ボタンを押すのを忘れたのだ。そういえば録音や録画のボタンがだいたいは赤い色なのはなぜなのだろう。わたしの周りで一番、全知全能に近そうなのは猫宮だから、彼に聞けばわかるだろうか。ベッドに寝転がって、そんなことを考えている間にうとうととしてしまった。
 どれくらい眠ってしまったのか一瞬わからなかったが、ふと目を覚ましたときには窓の外は暗くなっていた。そういえば、お寺のライトアップというのをどこかでやっていたなということを思い出した。何時ころまでやっていて、ここからどのくらいの距離なのかということを調べようとして寝る前にどこにおいたかわからなくなっていたスマホをさがそうとしたときに着信がなった。猫宮からだった。
「もしもし」
「ああ、渋谷さん、今は部屋ですか?」
「はい、すいません。気づいたらちょっと寝ちゃっていました」
「ああ、そんな感じの声ですね。ちょっと、出てこられませんか。すぐ近くです」
 特に考える間もなく答える。
「はい。大丈夫です」
 そういって、スマホの画面をもう一度みると、店のリンクが送られてきていた。電話の奥のほうからは、もう一人女性の声が聞こえる気がする。
「10分くらいでここを出られると思います」
「ああ、そんなに急がなくても、ゆっくりきてもられば大丈夫です」
 すぐにベッドから起き上がって、準備をはじめる。スマホで地図を確認すると、ここから十分もかからないくらいの場所のようだった。京都市内は、道が東西南北に綺麗に通っているので目的地までの時間も道順もだいたい思った通りでつくのがありがたい。
 四条通りから、通りの名前がかいた看板をみながら木屋町通りで北に曲がって、小川の横をとおる。人通りは多かったが、夜の風が気持ち良かった。場所は先斗町のあたりときいて身構えていたが猫宮が指定した店はギリギリ居酒屋といった感じの店構えにみえて、少しほっとした。
「ああ、こっちこっち」
 店の奥から門倉マコの声が聞こえた。猫宮は何もいっていなかったが、予想したとおりだった。
「あ、こんばんは。やっぱり、門倉さんいらっしゃったんですね。」
「なんだ、猫宮くん、いってなかったの。あ、そうだ、マコでいいからね」
 そういわれてもなかなか呼びづらいが、そういえば猫宮もそのように呼んでいたので、ここは言われた通りに従うことにする。
「いい感じのお店ですね。えっと、マコさん、の選んだお店だったんですか」
「うん、まあね。この辺はほらいわゆる歓楽街なんだけど、ここはまあリーズナブルな感じで」
 わたしは促されるままにお酒を注文した。猫宮はいつもどおりアルコールは飲んでいないらしい。
「猫宮くんはお酒じゃなくていいの。昔は少しは飲んでたでしょう?」
「やめたんですよ。そのあと本が読めなくなるから」
「相変わらず本ばっかり読んでるんだ。あ、これ、さっき頼んだやつだけどよかったら食べてね」
 門倉はそういって、机のうえの料理をわたしのほうに促した。どれもシンプルな居酒屋メニューという感じだが、味は薄味ながら出汁のきいたものが多く、なるほど京都らしいなと思うくらいにはしっかりしていた。
「おいしいですね、これ。」
「そう、よかった。そういってもらえると。このあたりの雰囲気もいい感じでしょう?」
「ええ、今歩いてきたところも川があって、夜散歩するにもいいですよね」
「ああ、あれは高瀬川って名前なの」
 名前は知らなかった。京都の川といえば、私は鴨川くらいしか名前をしらないので当たり前かもしれないが。
「初めて知りました。」
「「高瀬舟は京都の高瀬川を上下する小舟である」」
 猫宮がいった。
「ああ、『高瀬舟』ね。鴎外の」
 門倉がそういったが、わたしはその作品を読んだことがなかった。
「はい。」
 どうやら今、猫宮が言ったのは森鴎外の『高瀬舟』という小説の一文らしい。短編くらいなら、全文を覚えているということも猫宮ならありえないことでもなさそうだ。
「あれ、でもあの川を船が通っていたということですか。」
 見る限りとても船が通れそうな大きさではなかったが、昔は違ったのだろうか。
「あそこを通っていたらしい、ですね。高瀬舟というのは、普通の船と違ってそこが平らに近くて、水深の浅い高瀬川でも十分通れたということのようです。当時は伏見とこの洛中を結ぶ、重要な航路だったけれど、今では鴨川で分断されてしまったこともあるし、まあ運河としてはもう使われることはないでしょうけど」
 猫宮が説明をしてくれる。門倉は頷いているが、京都の人にとってはこのくらいは常識なのだろうか。
「鴎外っていうのは森鴎外ですよね。わたし『舞姫』くらいしか読んだことがなくて、それも高校生のときに授業で読んだだけ。『高瀬舟』っていうのはどんな話なんですか?」
 うーん、といいながら猫宮が門倉のほうをチラッとみた。門倉が頷いたのは、君がいいだしたんだからよろしくね、というジェスチャーだったようだ。
「ほんの短い話なんですけどね。要は、病気で苦しむ弟を殺してしまったという罪人をその船は運んでいるんですよ。」
「はあ」
「つまり、安楽死の問題です。」
 そういえば最近も医者が難病の患者を安楽死させたという話が大きな話題になっていた。しかし鴎外といえば、もう100年は前の作家である。その時代から、そういった問題を扱っていたということだろうか。
「なかなか深刻なテーマを扱っているんですね。あの川をみただけでは、そんなこと思いもしなかったけど」
 わたしがそういうと、門倉が頷いていった。
「まあ問題なんていうのは、外からみたらそう見えるものなのかもしれない。ほら最近あった医者による安楽死も。その安楽死を選んだ人だって、はたからみてみれば「病気の人は必ずそれを治療したいと思っている」という外側の単純な理解が問題なのかもしれないし」
「しかしその医者のやったことは、端的に殺人です」
 猫宮がそう言い切った。彼にしてはめずらしく強い口調だった。
「もちろん、それはわかってるよ。だから外側にいるわたしがなにか判断するようなことじゃないさ。でも、それでも自分ごととしていえばその選択は理解できないものじゃないかもしれない。わたしにだってそんな経験があるから」
 猫宮はそれをきいて、遠くをみつめるような仕草をした。この二人はいったいなんの話をしているのだろうか。わたしにはわからなかったが、少なくとも二人はずいぶんと前からの知り合いのような気がした。
 猫宮がなにもいわないので、門倉が続けていう。
「猫宮くんにもずいぶん迷惑かけたね」
「いや」
 猫宮はそれをきいて、黙ってしまった。わたしのほうもみないのは、これ以上はその話をする気はないぞ、ということかもしれない。
「あ、そういえばマコさんは、京都に住んでいらっしゃるんですか?」
 そういうと門倉は、そういえば何にも話してなかったね、といいながら
「今はそう。実はここ、わたしが経営してるお店なんだ。だから今はこの辺りで仕事をしながら、もちろん住んでもいるってわけ。もともとは東京出身だけど」
 門倉の貫禄からしても、店を経営しているというのはさもありなんという話ではあったが、それでも驚きだった。
「え、そうなんですか?」
「ま、そういうわけだから気楽になんでも食べてね」
「え、あ、ありがとうございます」
「それじゃあ僕はホテルに戻ります。」
「え?」
「マコさんが、渋谷さんを呼んで欲しいっていったんですよ。僕はもう、お酒も飲まないし。今日買ってきた本もチェックしたいんで、このあたりで。おふたりはごゆっくりどうぞ」
 猫宮はそれだけいってさっと店を出て行った。これまでの経験からいって別に機嫌がわるくなったというようなわけではなく見えた。彼にとってはただ、特別な用がないのだから帰る、ということの表明でしかないのだろう。
「彼は、ずっとあんな感じ?」
 猫宮が出ていくのをじっと見ていた門倉が、目線をこちらに移して聞いてきた。
「ええ。といっても、わたしはそんなに。マコさんの方がよく知ってるんじゃ」
「そっか。でも猫宮くん、あなたには随分心を開いているように見えるけどね。そもそも昔だったら、わざわざあなたを呼んでくれたりしなかったと思うし。面倒がってね」
 それでいえば、そもそも猫宮が呼び出されてここにきて、門倉と二人で食事をしていた、ということのほうがイレギュラーな感じに思えてくる。
「猫宮くんとは、長いの?」
「知り合って、一年くらいです。私が大学生のときの指導教官が猫宮さんの大学の先輩で、それでちょっと色々とご相談があって紹介していただいたんです。」
「なるほどね。そういえば、最初にあったとき彼も大学生だったな。わたしも二十代だったし」
「あの、マコさんって、おいくつなんですか?」
 この質問はちょっとまだはやかっただろうか、とはおもったが向こうもどうもこちらのことを知ろうとしているような感じがして、少し距離をつめてみた。そもそもよく考えてみたら、きょうほんの数時間前に偶然しりあっただけの人と、結果的に今こうして夕食を共にしてなぜか随分とプライベートな話までつっこんでしているわけだ。門倉という人物には、わたしはすでに好意を持っている。そういったことの自意識への判断は、この数年で明確になっている。自分がある人を好意的に思っているかどうか、ということをなるべくはやく判断してむしろそうじゃないとわかったときにそれが仕事なら顔に出ないようにするとか、そんな対策のため。要は処世術でしかない。ただ、そういうことを決めていればずいぶんと気持ちは楽だ。だから、そういったところに当てはめてみても、門倉は魅力的な人物にみえたし、向こうもこちらにある程度いい印象を持っているのだろう。で、なければここに誘うことはあるまい。ただ、それを考えても、彼女が猫宮とどういう関係なのか、ということはなおやはり気になった。
「あなたよりは上だと思う」
 さっとかわされてしまった。仕方ないのでこちらも話を変えるしかない。
「きょうは、ありがとうございました。おかげでハナさんにたどり着けて。でもまさか門倉さんが猫宮さんとお知り合いの方だったなんてびっくりしましたけど」
「最近あのあたりで、真剣に歌を聴いている人なんて珍しいなって思ってね」
「そんな必死な感じでてましたか、わたし?」
「うーん、でも声をかけようなんて今までおもったこともなかったから、普通じゃない感じが何かはあったのかも」
「それ、客観的に考えてやばいですよね、わたし」
「それでいったら声をかけた私もやばい」
 そういって門倉が笑ったので、私もつられて笑う。

 門倉とは小一時間ほど、たわいもない話を続けた。どうやら彼女がわたしと話したかった、ということらしく特に特別な中身があるような話はなかった。ハナについても、昼間に行っていたこと以上のことは知らないようだ。しばらく話をしたあと、あまり遅くなると悪いからね、と門倉が言い始めて席をたった。わたしの泊まっているホテルまで一緒に歩こう、ということになりふたりで歩き始めた。日中はまだ暑かったが、この時間はどちらかといえばもうすこし涼しすぎるくらいだった。
 歩き始めてしばらく会話が途切れたが、わたしは先ほどから気になっていたことを思い出した。
「あの、さっきの高瀬舟の話、マコさんにも同じようなことがあったって、あれは」
「ああ、その話」
「すいません、もしあまりお話ししたくないようなことであれば」
 門倉は高瀬川のほうを見つめながらいった。
「いや、別にいいんだけどね。うん、何から話そうか。そう、実は結構若い頃に子どもがいたんだ、わたし。あ、過去形はおかしいか。うん、でもわたしにとってはそういう風に表現するわけしかないのだけど。ただ、その子にはある障害があってね。で、その障害をもったまま生きるっていうのがどんなことなんだろうなって、私も色々と考えちゃってね」
「ええ」
「もちろん、当たり前だけど安楽死なんて結論になるわけじゃない。でもね、ある意味であの子にとっては、というよりもわたしにとってはなのかな、同じようなことだったのかもしれない。わたしは子どもを自分の親に預けて置いて、一人で東京に出ちゃったから。」
「お子さんにはそのあと?」
「会ってない。もう10数年はたつから。まだ5歳だったかな。そう、まあ一言でいってしまえば、わたしには自信がなかったんだな」
「お子さんを育てる自信、ということですか?」
「うーん、まあそうともいえるのかもしれないけど。要は、わたしがずっとわたしでいられる自信、ってことかな。例えば安楽死にしたって、常に同じスタンスでいられるのかどうか。もちろん、それは猫宮くんがいうように単なる殺人だって今は言い切れるよ。でも、自分がいざそこに直面したらどうかわからない。人間じゃなかったら、もっと簡単に判断できるのかもしれないけれどね」
「人間じゃなかったらってどういうことですか?」
「あー、まあ今のは聞かなかったことにして」
「え、あ、はいじゃあ。でも、本当にそれ以来10年、お子さんにはお会いしてないってことなんですね。」
 猫宮もその話は知っていたということだろうか。
「きっと顔も覚えていないだろうね、わたしの」

 ホテルに戻っても、昼に少し眠ったからかまだ目は冴えていた。ほとんど使ったことがないスマホの電子書籍のアプリを立ち上げて、「高瀬舟」を調べる。すでに鴎外が亡くなってから50年はたっているから、テキストはパブリックドメインになっているようだ。音楽ではなかなか古典といわれるものでもそんなことはないから、ありがたいような気がして早速読み始めた。。
 しばらく読んで、
「「夜舟で寢ることは、罪人にも許されてゐるのに、喜助は横にならうともせず、雲の濃淡に從つて、光の増したり減じたりする月を仰いで、默つてゐる。」」
 という文が妙に頭に残った。
 高瀬川を夜、船が罪人である喜助をのせて流れていく。しかしその罪人を連行している庄兵衛という役人は、喜助がまるで罪人らしくない安らかな顔をしていうのを不思議に思う。喜助は、実際には実の弟を殺した罪で高瀬舟に乗せられているわけだが、その殺した理由というのがいまでいうところの安楽死。それ以上生きていても苦しむばかりだ、と思われた弟を殺している。そして、喜助は鴎外の言葉をかりれば「足るを知る」様子で、超然と構えているように見える。役人として安定した生活をおくりつつも、罪人の輸送というやりたくもない仕事をしている庄兵衛にはそれが羨ましくも思える、というような短い話だった。
 ほんの1時間前、高瀬川のそばを一緒にあるいた門倉の表情は、少なくとも自分の過去について全てを受け入れているというように見えた。そういえばハナの歌にもそんな諦観とも違う、一種の悟りのようなものが存在しているような気がする。彼女が同じ曲を二度と歌わないのも、同じことなのかもしれない。

 翌朝は猫宮に誘われて、少しリッチな朝食だった。私の方は午後に花の歌を聴きに行くまで、しばらくは特に用事がないといったら、猫宮はまた一件訪れたい本屋があるというので私も一緒についていくことになった。京都にはインディペンデントの書店も多いらしい、というのは猫宮が来る前に話していたことから知った。猫宮はそのうちのひとつにただ行ってみたかっただけのようで、30分ほどゆっくりと店内をみて、文庫本を一冊かって出てきた。
「まあここで買わなきゃいけないわけじゃないんですけどね。ちょうど探していたものがあったので。渋谷さんはいいんですか?」
「ええ、でもかわいいお店ですね、ここ」
「中の喫茶も人気らしいですよ」
「猫宮さん、京都詳しいですよね。結構来られてるんですか?」
「いや、かなり久しぶりです。」
「前にいらっしゃったときは門倉さんに会ったりはしなかったんですか?」
 猫宮は無表情のまま答えた。
「え、ああ。そうですね。前にあったのはいつだったかな、もう大分前ですよ。まだ彼女が東京にいたころだから。昨日は相当久しぶりでしたね」
 昨日のライブがあった時間よりも三十分ほど前に、きょうは猫宮と一緒に、鴨川デルタまでやってきた。見る限りでは門倉は来ていないようだった。昨日別れ際になにかを約束をしたわけではなかったが、なぜかここにくるものと思ってしまっていたので少し拍子抜けしてしまった。
「マコさんからは何も?」
 猫宮も同じことを思ったようで、わたしに聴いて来た。
「ええ、特には。来るのかなと思ってたんですけど」
 そんなことを話しているうちにきょうは昨日よりも少し早くハナがやってきた。昨日と、ほとんど変わらない服装で違うのは髪についてリボンの色くらいだろうか。そういえば、メイクなんかもほとんどしているようには見えない。それでも、彼女の表情はすでにそこがステージであるということをこちらに実感させるようなものに見えた。周りにはわたしと猫宮以外に彼女を歌を聴こうとしている人はだれもいない。
 準備をそうそうに済ませて、ハナはギターのイントロを弾き始める。この部分は昨日の曲にも似たようなパートがあったが、やはり曲としては違う曲らしい。昨日のことは歌詞も含めてまだ少し覚えていたが、内容はまったく違うものだった。

 私がどこの誰かだとか
 気にしないできれいにいられるような
 そんな関係にみえるデルタ

 曲はまた5分もたたないうちに終わってしまう。わたしは今日、他のことを一切考えずにハナの歌を聞くことだけに集中していた。となりに作詞家がいたことも忘れていたくらいで、だから彼が終わるなりハナの横に駆けつけていって話かけていたのも、ただぼんやりと「そんなようなこと」が目の前で起こっているというように見えただけだったのだ。
「素晴らしかったです」
 猫宮がそんなようなことをいったのが聞こえた。
「えっと」
「猫宮といいます。」
「猫宮さん。そうですか、きょうはありがとうございます。」
「今のは新しい曲ですか?」
「はい。きょうここに来る前につくったんです。」
「とてもいい曲ですね」
「ありがとうございます。えっと、ご一緒だったんですか」
 ハナがこちらをみて言ったようだったので、近づいて話しかける。
「あ、こんにちは。今日も来てしまいました」
「そうでしたか。ありがとうございます。」
 ハナがこちらに答える。
「あの、どうして前と同じ曲は歌わないんですか?」
 わたしは思わず考えていたことをきいていた。
「きょう、あたらしいものができたからです。これが一番、わたしの好きな曲です」
 ハナは当たり前のようにそういった。本当にそれは、それが唯一の答えであろうというような口調だった。
「あの、これを」
 わたしはそういって昨日渡せなかった名刺を渡した。
「ありがとうございます」
 ハナはほとんど表情を変えずにそれを受け取る。
「もし、ハナさんの楽曲をCDとかにしたい、というお気持ちがあったらご連絡もらえたら嬉しいです」
 そういうと、ハナは少しぎょっとした表情でこちらをみた。
「あの、どうして」
 ハナはそういってさらに何かを続けようとしたが、すぐに目線を今わたした名刺に落として、そのままギターをしまってまた昨日と同じように帰っていこうとした。
「ぜひ、連絡ください」
 わたしはその背中に、また昨日と同じように声をかけるしかなかった。その目線を、少し離れた、鴨川にかかる橋のほうに向けるとそこで門倉が手を振っている。一連のやりとりを見ていたのだろうか。もう一方の手には昨日と同じコーヒーをもっているように見える。


「猫宮さん、彼女はあんまり乗り気じゃないってことなんですかね」
 わたしは名刺を渡したときのハナの反応を思い出しながら言った。今でこそ、様々な方法もある世の中だが、ちょっと前ならこうやって弾き語りをしているアーティストに、わたしの会社の名刺を見せると大体はもう少し反応するものである。もちろん、それがすぐにデビューというところにつながるわけではないことがわかっている人もいるが、それでもそこにつながっていく可能性があるからだ。
「そうですね」
 猫宮は何かを考えているようだった。
「ほら、そこはかえでちゃんの腕の見せ所でしょう」
 門倉が横から突っ込んで来る。一日たって、随分と距離のとり方も定まったようでいつのまにかしっかり名前で呼ばれるようになっていた。
 三人は、鴨川沿いをくだって、街中ににある喫茶店に移動していた。洋風の古い喫茶店で、まだそれほど暗くない時間でも幻想的な雰囲気が広がっていた。そのせいなのか、ガラスの窓にさきほどのハナの表情が映って見えた。
「マコさん、そうは言ってもほとんどハナさんとはコミュニケーションとれないですし。」
「うーん。でも、わたしが見てる限りでは今までで一番人と話していたような気がするけど」
「猫宮さんとは、ってことですか」
「うん、というかあなたたちふたりと」
「マコさんは、以前ハナさんをみたときに、お話しされたりしたんですか?」
「え?ああ、まあちょっとはね。最初にあったときに。まあでもほとんど何も話せてないよ。ごめんね、参考にならなくて」
「いや、そんなこと。」
「でも、マコさん、まだ彼女のことで話していないことがあるんじゃないですか?」
 猫宮が門倉にいった。
「え?」
「きのうの渋谷さんの話では、マコさんは今まで2回、昨日と、まあ今日もいれたら4回彼女、ハナさんの歌うところをみているわけですよね。」
「えっと、たしかそうおっしゃっていたかと」
 わたしが付け加える。
「でも、今まで一番、彼女が人と話していたって思うってことは、少なくともそれよりは多い回数、その姿をみているじゃないですか。最初に一度、マコさんが話したんだとしたら、比較対象になるのは2回目だけ。それだけで「今までで一番」というのはちょっとおかしいように思ったんです」
 猫宮はそういって門倉のほうをじっと見つめた。
「ああ、ごめんごめん、それは言葉の綾だよ。まあようは私が話したときよりってこと」
 門倉はそういって笑った。私たちはそれ以上、何も話すことがないというようにそろって鴨川を見つめていた。


「綺麗ですね」
 猫宮がいった。
 京都の夜は一千年前、いやそこまでいかなくてもほんの少し前まではこの時間でも火を灯すくらいしかこの街をこの時間にこの明るさに保つ方法はなかったはずだが、とてもそうは思えないくらい、つまりこうやってライトアップされることがそのデザインの本質的な部分に組み込まれていたとしか思えないくらいの時間と空間に思えた。
「そういえば、哲学の道、っていうんですよね。この先のあたり」
「その辺りはライトアップはされていないみたいですけどね」
 一度宿にもどって、今度は自分から猫宮を誘ってもう一度でかけてきた。せっかくなので京都をすこしくらいは観光しておきたい。そう思って猫宮に声をかけたら、夜ならこのあたりを見ておきたいということででかけてきたのだ。
「そうなんですね。そういえば、どうして哲学の道っていうんですか」
「ああ、それは京都大学にいた哲学者、たとえば西田幾多郎あたりがこの辺りをよく散策していたという話からです。まあ世界的にみても、日本で一番著名な哲学者といえるでしょうからね。」
「西田幾多郎って、名前はきいたことがある気がします。歴史の教科書に」
「歴史の教科書にのっていそうなものならあとはその先のあたり銀閣寺はさすがにしっていそうですから、あとは鹿ケ谷というのですがこのあたりは日本史にも出て来ますね」
「ししがたに?」
「鹿、とかいて鹿ケ谷ですね。平安時代の末期に鹿ケ谷の陰謀、というのがあったのをしりませんか」
「ああ、なんかきいたことがある気がします」
「当時絶大な力をもっていた平清盛、その平家打倒のための話し合いがこのあたりで行われたということですね。まあ当時の清盛は最大の権力者なわけですから、かなり大きなクーデターです。まあ基本的には失敗したから陰謀、と呼ばれているわけですけど」
「失敗したから?」
「成功してたら政権交代で、陰謀とは呼ばれません。」
「ああ、なるほど。」
「そういえば、鹿ケ谷といえば『奇異雑談集』に京都の東山の獅子谷という村、これはライオンのほうの獅子ですけど、その獅子谷で鬼子が生まれたという話がありましたね。僕はこの獅子谷というのが、鹿ケ谷と同じもののかそこまでは知らないんですが、同じ東山なので関係ないことではないということでしょうか。要は作り話のようなものなので、ちょっとぼやかした名前をつかったのかもしれません」
「鬼子、っていうのはなんですか?」
「異形の子ですよ。特にその時代だったら、まずは歯がはえた状態で生まれて来た子のことですね。そういう子供は縁起の悪いものだってことで、捨てられたり、あるいは殺してしまったりしたようです。」
「ひどいですね」
「ただね、鬼子というのはなかなか微妙な概念なんですよ。生まれつき歯があるというのはたしかに平均的ではない、ただこれは言いようによってはものすごく発育がはやいともいえる。だから、普通よりも発達がはやい子供のことを鬼子ということもあるんです。この場合、現代的な感覚で言っても悪いものとは限らない。ただ、その親にとっては過ぎたるは及ばざるが如し、ということもあるのかもしれませんが」
「親の手におえないような子供ということですか」
「そういう例もあるでしょうね」
「マコさんが、」
 わたしはふと思い出したことをいいかかけて、一瞬言葉につまってしまった。
「ああ、その話聞いてたんですか」
 猫宮はなんでもないように答える。
「自分の子供を、おいて出ていってしまったって」
「僕が京都から東京にでてきた彼女にあったのは、そのあとですね。その話は、一度だけ聴いたことがありました」
「子供とはそのあと一度もあってないって」
「ええ」
「でも、京都に戻って来ているってことは、やっぱりマコさんはその子に会いにいくというのが目的だったんじゃないですかね。普通はあいたいって思うと思うんですけど」
 わたしがそういうと、猫宮は
「まあ普通というのがマコさんに当てはまるのかはわかりません。鬼子に対する考え方だって、当時はそれが普通なわけで。でも、まあそういう意味では渋谷さんのいっていることは間違ってないですね」
「え?」
「ハナさんが、マコさんの娘ですよ」
 猫宮は当たり前のようにそういった。
「え?」
「だから、彼女はすでに、自分の娘さんにはあっています」
 それは本当なのだろうか。彼と門倉の間にはわたしが知らない関係もまだありそうだし、猫宮がある程度断定的にそういうのならまったく間違っているということはなさそうだ。
「でも、娘にはずっとあってないって」
「それは、言葉の綾、かもしれないですね」
 先ほどは門倉が使っていたその言葉に私はどきっとした。
「もしかしてマコさんは自分が母親だってことをハナさんに伝えてないってことなんですか?」
「あるいは伝わってない、ということでしょうね」
 猫宮がハナの視点で言い直したのは、門倉の心情をおもってのことなのだろうか。それでも私からすれば、なぜそれを伝えないのかがよくわからなかった。
「でも、言ってあげればいいように思ってしまうんです、私には。」
「そうですね」
「じゃあどうして」
 わたしはハナのことを思い出していた。まだ、数回、合計しても1時間にも満たない時間の彼女しかみていない。ただ、だからこそなのか、あるいは世界に彼女のことを正しく認識している人間が自分も含めてほんの数人しかいなそうだ、という意識がそうさせるのか、他人事には思えなかった。
「僕に、マコさんが考えていることのすべてがわかるわけではもちろんありません。想像はできるけど、それは僕の知っているマコさんを僕がトレースして考えたものでしかない。陳腐な言葉ですけど、彼女には彼女の理由が、いつだってあるんだとおもいますよ。ただ例えばいうなら、もう時間がたち過ぎている、ということでしょうか」
「そんなことでですか?」
 猫宮はこちらをみない。
「渋谷さん、僕が作詞家としてデビューした曲、あれももう十年以上前になりますけど、そのグループの一番最新の曲ってききましたか?」
 唐突な質問はいつものことだったが、内容に少しびっくりした。猫宮のかかわった曲はだいたい聞いていたが、わたしまだはその曲はきいていなかったからだ。
「ええ」
 なぜか正直にいうことが憚れてそう答えてしまう。猫宮のつくったものはぜんぶチェックしている、というのは周りに対してそういいたいだけのことだと思っていたはずなのに、本人にもおなじことを言ってしまうのはどうしてだろう。
「夜船」
 猫宮がそういった。いつのまにか少しだけ小高いところまできていて、京都の街の一部が見える。
「猫宮さん?」
 猫宮はおそらく高瀬川のあるほうをみている。
「その辺りを昔はもっとたくさん、船が通ってたんですね。今では動いてる光は車とか、電車とか、そんなところですか。処刑につれていかれるような人はいない。僕が百年前に、ここから船に乗ったふたりの人をみた、といったら誰もが信じたでしょうけど、今では誰も信じてくれないでしょうね。」
「時間の流れ、ということですか」
「ええ。そういえば流れというのは不思議な表現ですね。川の流れも、時間の流れも、本当はそこにはない。ヘラクレイトスは、同じ川に二度入ることはできない、といいましたがそれはつまり川が流れているからです。でも、実際には川の流れ、というものそのものだって何か具体的に存在しているわけではないんです。」
 ヘラクレイトスの話は、大学生の頃になんとなくきいたことがあった気がする。今、京都で聞くことになるとは思わなかったが、確か哲学者の名前だから哲学の道ではいつもこんな話がでてるのかな、と考えた。
「それなら、私たちは時間の流れの中にいるわけじゃないんですか?」
 わたしは頭に思い浮かんだことをそのまま口にしていた。
「僕たちが、時間の流れそのものなんですよ」


 その夜はなかなか寝付けず、翌朝も起きたのは遅かった。チェックアウトの時間に猫宮とは待ち合わせの予定だったが、彼はどうもまた朝からどこかに出かけているらしい。部屋でメールを一通かいてから、十一時のチェックアウト時間ギリギリになって向かったホテルのフロントで猫宮のことを聞くと、もうかなり前に猫宮はチェックアウトを済ませていた。ロビーで昨日の話を思い出しながら、待っていると入り口から猫宮が入ってきてロビーにあるわたしの座っていた向かいのソファに腰掛けた。。
「おはようございます。どこか行かれてたんですか?」
「散歩です、その辺まで」
「昨日も結構歩いたのに」
「東京にいるとぜんぜんそんな気にはならないんですけどね。まあ目の前にやらなければいけない仕事がないから、という気もしますが」
「帰りの新幹線、夜にとってあります」
「まだ、結構時間がありますね。」
「猫宮さん、わたしもう一度あの場所に行ってみようと思うんです。ハナさんが歌っている。それで、」
 猫宮は表情を変えなかった。昨日、彼に言われた言葉のいくつかが蘇ってくる。彼は、これ以上このことには触れない方が良いと思っているのだろうか。
「わたし、マコさんにも連絡したんです。もう一度一緒にいって、それでできることならハナさんに本当のことを話してほしいって」
「彼女にそう、いったんですか?」
「はい」
「それじゃあ」といって猫宮は立ち上がっていった「僕もいきますよ」

 京都に旅行に来て、三日連続で同じ場所に訪れる人はどのくらいいるのだろう。ただ同じ流れは二度とないのだから、ここが同じ場所と言ってもやはり昨日とも一昨日とも違う気はする。そこにはすぐ川があるのだから、なおさらだ。
 門倉はすでにそこに来ていたが、昨日までと違って空が少し暗い。雨もぽつぽつと降って来ていて、門倉は赤い傘をさしていた。
「昨日は猫宮くんと、あの後デートして来たの?」
「え、いや、そんなことは」
「でも、彼から何か話をきいたんでしょ。だから、きょうまたここに来てくれって。別にもう私がいなくても、彼女と話す分には問題ないだろうし」
「きょうは、マコさんに、ハナさんとお話ししてみてほしいんです」
「本当のことを?」
「ええ、本当のことを」
 ハナは天気と関係なく生活しているのか、雨の中傘をさすこともなく現れた。楽器に良くない気もするが、短時間のことだから気にしていないのだろうか。この数日間と同じように、準備をして歌い始めた。
 普段その中にいるとあまり気にならないが、雨の音というのは随分と大きいらしい。彼女の歌の聞こえ方もだいぶ変わって聞こえた。ギターの音があまり聞こえなくなった代わりに、彼女の歌はむしろ耳に近い所で聞こえてくるように思えた。

 それはなんて悲しい生き物なの
 正しくしか生きられないなんて

 不思議なことに、きょうの曲は今までとはちがって「昨日の曲」の続きであるように聞こえた。つまりまったく新しい曲というよりは、これまでの曲を踏襲したものなのだ。それだからか、ある意味でこれまでのきいたどの曲よりも私は一聴して彼女が歌うその曲が好きになっていた。できることならこの曲をもっと多くのひとにきいてほしい。そのためにも会社からリリースをしたい。ただ、そのための話をわたしがハナとするよりも、今日は大事なことがあるような気がしていた。
 曲を終えて、ハナがいつもどおりに楽器をしまう様子を私は眺めていた。雨だったからか、ギターをもっていたタオルで拭いている。わたしはそれを見ながら、門倉に目配せをした。門倉はわたしのほうを一度じっとみて、首をふった。
「ハナさん」
 わたしは声をかけた。
「はい?」
 ハナは驚いたような顔をしていた。
「今の曲は、何をおもってつくったんですか?」
「何を?」
「何かイメージがあったんじゃないかって」
「いえ。でも私が歌ってるのはずっと同じ理由です」
「それは?」
 ハナはもう片付けをおえて、すぐにでも歩き出そうという仕草をした。
「毎朝歌わなきゃいけない曲を思いつくから。あとは、そうだ、私自分のお母さんを探しているんです。ずっと。いつか歌をきいて、私に会いに来てくれたらいいなって」
「それなら」
 わたしがいいかけた時にはもうハナは歩き出していた。雨で道ゆく人が傘をさしているせいか、歩き出した彼女はすぐに人の影になってしまった。

 門倉とは、三条の駅で別れて、猫宮と一緒に京都駅に向かった。新幹線まではまだ余裕がある。会社になにかおみやげでも、と考えなくもなかったが今更京都土産のお菓子で喜ぶような人たちではないだろう。いいアーティストをみつけた、というのが一番のお土産になるはずだったが、どうもそれはあまり見込みがないことかもしれない。
「マコさんはどうして、私にハナさんの歌を聴かせたりしたんでしょう?あの、もしかして猫宮さんが言ってたってわけじゃないですよね」
 わたしたちは駅ビルはいって、エスカレーターで上を目指した。京都駅のこの大きな階段はずっと前から気になっていたが、なんだかんだで一度も上まで登ったことがなかった。
「そんなことしませんよ。だいたい、渋谷さんが探していた人がほとんど誰だかわからなかったんだから、僕の知り合いが関係しているなんていうのは事前にわかりようがないですし」
 しかし門倉と猫宮が事前に連絡をとりあっているのであれば、別に可能性がないというわけでもないだろう。母親として、娘のためにその音楽を世に広げる手伝いをできる人を探していた、とか。でも、彼女自身の夢は母親を探すことだといっていたのだから、そのためだったら自分が名乗り出ればいいことなのだ。
「あの、マコさんと猫宮さんて、そもそもどういう関係だったんですか?」
 ちょうど屋上までついたところで、わたしは猫宮に切り出してみた。
「渋谷さん、京都の白河という川をしっていますか?」
「猫宮さん、何かごまかしてません?まあいいですけど、また川ですか?いや、でも知りません。ここから見えますか?」
 少しうごいて、おそらく昨日歩いたであろう方角がみえるような少しひらけた場所までやってきた。
「僕も知りません。」
「え?」
「というか、そんな川はないんです。白河というのは地名で、まあかつては本当に川があったからそんな名前なのかもしれませんけどね。昔、京都を旅行したという嘘をついた人が、「白河はどうだった?」ときかれて「夜に船で通ったので、寝ていて覚えていない」と答えてその嘘がばれたそうです。それで、まあようはしったかぶることを白河夜船というんですよ」
「はあ」
「僕が最初に歌詞をかいたあのグループ、実はもう五年以上前に解散しているんです。だから、最新曲というのは実はありません。まあしいていうなら、五年前の曲。解散の直前につくった。」
「え、そうだったんですか?」
「はい。なんで昨日は知ってるなんて言ったんです?」
「いや、それは」
「まあ、別にそれはいいんですけどね。」
「えっと、すいません何の話をしてるんですか?」
「ああ、すいません。そう、だからそのグループのプロデューサーだったのがマコさんなんです。えっと、つまりまあ、僕に最初の作詞の仕事をくれたのが彼女です」
「アイドルのプロデューサー?そうだったんですか。しかも解散してたんですね。その頃すごくいろんなアイドルが増えていて、何が増えて、何が解散したのかももうわからなくなっていた気がします」
「だから、彼女が安楽死させたんですよ」
「え?」
 猫宮の言った言葉の意味が一瞬わからず、そのまま聞き返してしまった。
「マコさんがいっていた、僕にも迷惑をかけた「覚えのあること」というのはそのことですよ、たぶん。」
「自分のプロデュースしているアイドルグループを解散させた、ということですか?」
「そうです。さっき渋谷さんがいったとおり、その頃にはアイドルグループが増えすぎてたんです。でも内容があたらしいものは何もうまれない。このままだと、ただ過去の再生産になってしまうと。メンバーの子たちのその後を考えても、そんなものをだらだらと続けたところでマイナスになるだけだ。これ以上続けても誰にとっても幸せではない、というのがマコさんの判断だったようです。僕もそのとき最後に彼女から相談されましたけど、こればかりは彼女がいう安楽死が正しいのだろうな、とそう思いました」
「たしかに、終わらせるタイミングというのは難しいですよね。特にアイドルグループって、メンバーがどうということよりもプロデューサーが何をしたいか、それがすべてだって先輩にも言われたことがあります。それがなくなったら、続けられないとも」
「ええ、少なくともそのグループとして続けることは難しいかもしれないですね。まあ、いろいろな事情で、ある程度の規模になってしまったらそんな簡単にはやめられない、という場合の方が多いんでしょうけど」
 たしかに、私のはたらく会社の中でも、もはやメンバーの意思とは関係ないところでとまれなくなっているプロジェクトはたくさんある。それこそアイドルグループならば、それでもプロデューサーに意思があればよいのだろうが、そうじゃないものはただただ続けることのみが目的になり、当然作品が劣化していく。私たちの仕事は作品を世に出していくことだが、それが単なる目的になってしまったときに本質ではなくなってしまうというのは難しい問題だった。当然、続けなければ作品が世にでることもないのだから、続けていく努力をしないわけにはいかない。
「でも、マコさんにはそれができたわけですね」
「ええ。彼女の信念だったように思います」
「ハナさんに本当のことを話さないこともですか?」
 わたしがそう言うと、猫宮はほんの少しだまって考えるようなそぶりを見せた後に言った。
「やっぱり彼女のこと、シンガーソングライターとしてデビューさせようと思っていますか?」
 それについては、気持ちに変わりはない。今回彼女の歌をきいて、世に出すべきだとあらためて確信した。ただ、彼女にその気があるのか、というのが一番のポイントになるだろうとは思うが。
「はい。それについては、いろいろ問題はありそうですけど」
「彼女が歌うのは難しいと思うんです。作詞や作曲だけなら、できると思いますけど」
「それは、彼女が人前に出るタイプではない、ということですか?」
「いや」そういって猫宮はまた少し間を置いた。「そういえば、彼女が同じ歌を二度歌わない理由って何だと思いますか?」
「それは、つまり、毎回もっといい曲ができるから、自分でも前につくったものを演奏するよりも、その新しくできたものを演奏したいということなんじゃないでしょうか」
「たしかに、彼女の曲を三曲聞きましたけど、どれも甲乙つけがたいものでした、ただそいうことではなくて、ハナさんはそもそも前の楽曲を覚えていないんです」
「覚えていない?」わたしは猫宮の表情を確認する。「それは、どういう意味ですか?」
「そのままの意味です。曲だけじゃなくて、ハナさんには前の日の記憶がないんです。」
「え?」
 前の日の記憶がない、つまりどの曲もつくって演奏したその日には忘れてしまって、だから前につくった曲はやらずに毎回新曲を演奏しているということなのだろうか。
「おそらく、マコさんの話を聞く限りでは昔持っていたという障害が要因になっているのではないかと思います。もちろん、マコさんも今のハナさんの状況には気づいていないのだと思いますよ」
「どうしてそんなことを?」
 わたしは言葉がまとまらず思わずそう言っていた。
「渋谷さんが気づかないのは、無理もないです。」僕は昔、すこしだけマコさんから娘さんのことについて聞いていましたから、と猫宮はいった。ハナは、一日ごとに記憶がリセットされてしまう。それがいつからはじまったものなのかはわからないが、それでもずっと曲をつくって歌い続けているのだ。
「僕らが昨日聞いた曲。あの曲で歌われていたのは、最初の日の僕らの様子ですよ。きっとハナさんは何かしらで毎日の記録を残しているんでしょうね。それが次の日の曲になる」
「あの」わたしは昨日ハナにあったときのことを思い出していた。「もしかして昨日、ハナさんに名刺を渡した時にすごく驚いたような顔をしていたのは、わたしが彼女の名前を言ったから、だけだったんですか?」
「そうかもしれません。もちろん彼女の真意はわかりませんが」
「ああ、それじゃあマコさんは」わたしは彼女とはじめてあったであろう場所の方角を思わず探していた。いつのまにか陽は落ちて、街にも光が灯っている。「ハナさんに、すべて伝えているんですね。きっと何度も」
 駅に向かって遠くから、光が近づいてきた。あの船は、夜の街をどこに向かうのだろうか。
「さあ、帰りましょうか」
少し暗くなった方から聞いたことのある、わたしを呼ぶ声がきこえてきた。

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