
音楽業界の「ゴースト」問題の行く先は? #音楽ミステリー小説 第3作「ユーレイゴースト」
「ユーレイゴースト」
幽霊がでる、という話は大きなスタジオでは定番の話だ。どこそこスタジオの近くには墓地があって、地下スタジオでは特にでるらしい、とかどこどこスタジオで撮った写真にはよく変な影が入るらしい、とかいった噂は非常に多い。撮影スタジオに限らず、音楽のスタジオ、例えばレコーディングスタジオなんかにもそんな話はよくあって、都内の某有名な巨大レコーディングスタジオにはじめていくときに、先輩ディレクターから「あそこはでるぞ」と脅されたことがある。実際何がでるのかよくわからない。
そもそも、幽霊なんてものをまったく信じていないのだ。信じる信じない、ということを議論することもあまり興味がわかない。いないものについて話しても仕方がないのだ。猫宮がいたなら、「存在しないものについて議論することはできるのか」という話で半日は話をしてくれそうなテーマだ。だいたい、もし幽霊が「いる」とするなら、それはもはや幽霊ではないではないか。いるんだから、それはなんらかのものだろう。心霊写真なんかもどうして顔とか手とかばかりで、「倫理的に写ってはいけない」ようなところが写ったりしてないのは不思議だ。人の写真に勝手に入ってくるような変質者なら、まっさきにやりそうなものだ。
「でも、まあどちらかという幽霊って感じなんだよね」
有原光希がいった。有原はわたしにとっては社会人としての同期にあたる。こちらはレコード会社、有原はレコード会社系ではあるがアーティストのマネージメント会社に勤めている。ただ、入社の際に音楽関連の企業の新入社員同士の集まりがつくられ(そんな面倒で余計なことを誰が企画しているのだろうか、いまだにその張本人にあったことがない)、今ではほとんどその集まりが形骸化した中で時折、それとは関係なくても何かにつけてあうのがこの有原だった。きょうはめずらしく、有原の方から何か話したいことがあるといっていたのと、有原がいる六本木の会社近くまでくる用事もあったので、二人でお茶でもしよういうことになったのだった。
「ゴーストじゃなくて?」
「それは言わないでおいて」
「でも、有原くんのところのアーティストって、そもそも自分で曲書く人よりも、ほら、アイドルとかシンガーとかが多いから。あんまり関係ないんじゃないの、そもそも。ゴーストライターっていうのは、要はシンガーソングライターとかそういう本来は自分で詞や曲を書く人達が実は書いてなくて、だれかプロの作曲家とかがつくってるってことでしょ」
「まあそうなんだけど。今回はそのこともあって、対応がよくわからなくなっちゃってる部分もあるんだよ」
有原の話というのは、どうやら自社アーティストのゴーストライターのことらしいが、ゴーストという部分だけをきいて、私が先日あったスタジオでの幽霊騒動の話をしてしまったのだ。練習スタジオで、自分の持っている機材とスタジオで借りた機材でセルフレコーディングをしようとしたアイドルシンガー(アイドルがセルフレコーディングをしよう、と思うだけでもなかなか大したものだなと最初は思ったものだ)から電話がかかってきて、どうやってもその機材のマイクから音がでないというのだ。ケーブルもマイクも、オーディオインターフェースというパソコンと楽器をつなぐ機械も壊れていない。パソコンも最近新調したものだという。結局、実は彼女が使おうとしていたのは「コンデンサーマイク」といわれるマイクで、これには普通練習スタジオなどにある「ダイナミックマイク」では必要のない別の電源が必要であるということがわかっていなかっただけ、ということが判明した。この電源は「ファンタム電源」と呼ばれている。ファンタム、つまり幽霊のことで、普通のダイナミックマイクでは必要ない、見えない電源なのでそう呼ばれているのだ。そして、これが必要なことに気づかないで音がでない、という実によくある話を、今回もまさに「幽霊騒動」として大騒ぎしてしまったわけだった。
「まあそれでいったら結構うちだってファンタム電源のこともしらないようなアーティストばっかりなんだけどね、まさに。でも、もちろん、機材とかにもちゃんと詳しいアーティストもいるんだけど。しってるでしょ、らいむって」
「もちろん。というか、レコード会社うちだからね」
「らいむ」というのはわたしの働くレコード会社でもまず売れっ子といっていいシンガーソングライターである。社内で宣伝資料などがよくまわってくるので、もちろんわたしもチェックはしていた。ビジュアルも楽曲もいうなれば「正統派」ということになるのだろう。ただ、複雑なコード進行や、内省的だがそれでいてキャッチーな歌詞は社内の若手アーティストの中でも頭一つ抜けた音楽的評価をうけているといっていい。わたしたちの視点からすれば、要は「曲もよくて、人気もある」という実にありがたい存在ではあった。
「もうメジャーデビューから2年たつんだね」
よく勘違いされやすいが、レコード会社とマネージメント事務所というのは基本的には別の組織である。レコード会社はCDなど音源を発売するところ、マネージメントはいわゆる芸能マネージメントである。シンガーやバンド、アイドルもそうだが、アーティストはこの両方に所属する場合が多い。最近はそのどちらも同じ会社が兼任する場合もあるが、アーティストはいつかの組織が絡んでそれぞれが役割分担をしていくのが基本的なやり方であるという考え方がこれまで強かった。だから、らいむの場合は有原のいる会社でマネージメントを、かえでの方の会社でCDを発売している、ということになる。そして、かえでの会社は「メジャー系レコード会社」なので、2年前にその会社と契約をしCDを発売したらいむは「メジャーデビュー」を果たしたことになる。そしてメジャーデビューしてもすぐに消えていくアーティストが9割と言われる中で、らいむはこの二年間着実に数字を伸ばしてきていた。
「でもすごいよ。今、うちで、シンガーソングライターとしては一番売れてるんじゃないかな。マネージメントは有原くんが今、直接担当ってことなの?」
「現場はもう一人新人の子がついているんだけど、一応僕の担当の管轄ではあるね」
「え、なんだ、もうそんなに管轄があるくらい偉くなってるんだ」
「いや、なってないなってない。マネージメントだとそのくらいが普通かも。ほら社員も18歳の子とか入ってくるし。まあ、そうそう、きょうはそのらいむの話をしたかったんだけど」
「あ、そうなんだ」
「ほんとはこんなこといっちゃまずいのかもしれないけど、なかなかどうしたもんかと思っちゃってることがあってさ。あ、それで渋谷さんところの課長にも相談したんだよ。そしたら、最近渋谷さんがここ最近色々社内なトラブルを解決するのに活躍したっていってたから。課長さんから、そういえば仲良いんだったら相談してみたら、なんて言われちゃって」
「え、うちの課長がそんなことを。」
「うん。でもトラブルってなんのこと?っていうかそんな仕事してるの今?」
「いやいやいや。してないって。今まで通り普通にディレクター職だよ。それにまだ、そっちだって、そんな大した仕事できてるわけじゃないし。」
「じゃあ、なんでそんなことに?」
「うーん、なんだか成り行きで色々と」
確かにここ最近、社内のいくつかの問題の中心にたまたま関わることになってしまって、しかもその解決法というのか、善後策を結果的に私が部長やら課長やらに提言することになってしまっていた。と、いっても実際それを考えたのは自分ではない。
「へえ。でもそれはそれとして、なんか楽しそうにみえるよ。前あったときよりも」
「そう?」
トラブルはともかく仕事はそれなりに充実しているとはいえるだろう。今度新しく担当することになりそうなアイドルのことだけは、まだ先行きがまったくわからない、というところではあったが。
「まあ、いいや。それで、そのらいむのことなんだけど」
「そういえば、そんな話きいたことあった気もするけど、もしかして、本当にゴーストライターがいるってこと?」
「さすがトラブルシューター、話がはやい」
「あー、そうなんだ。でもさ、それって結構噂になってはいる、というか結構暗黙の了解みたいなところあるんじゃないかな。あれでしょ、プロデューサの大川原さん」
「その通り。」
大川原嘉人はすでに50台半ばだが現在も第一線の音楽プロデューサである。もともとうちの会社とは別の大手レコード会社の社員だったが、30歳前に独立。もともとレーベルディレクターの枠をこえて作曲や編曲アレンジにも口も手も出す社員だったらしいが、それを全面的に仕事とするために独立したらしい。その後すぐに作曲プロデュースしたアーティストからレコード大賞受賞者が出たりと、ヒットプロデューサーとして活躍した。最近は作品のペースは落ちてはいるものの、らいむをはじめ何組かのヒットアーティストのプロデュースを手掛けていることで有名だった。
らいむはメジャーデビュー前から、この大川原のプロデュースするアーティストとして活動をしていた。これまで大川原がプロデュースするアーティストは大川原自身の作曲する楽曲で活躍することがほとんどだったが、ライムに関しては楽曲の作詞作曲はらいむ本人が行なっており、その本人発信の言葉やメロディが同世代を中心に支持を集めていたこともあって、あくまでも大川原はプロデュースに徹しているという見え方を打ち出していた。
「らいむは、シンガーとしては天才といってもいいと思う。言葉の意味を感じ取ったり、それを表現したり。もちろん技術的にもそうだけど、まさに歌うために生まれてきたといってもいいね」
「なかなかいうね、有原くん」
「いや、でもそれくらいの才能だよ。最初にあったうちの社長が、曲の良し悪しと関係なく、即その場で契約するっていったからね。それに、ビジュアル的にも華がある。あのバランスはなかなか奇跡的だよ。ただ」
そういって有原は少し言葉に詰まった。
「ただ?」
「天才的なシンガーだからといって、天才的な作曲家であるとは限らない」
「まあそりゃそうだね。」
「らいむのつくった曲、そうそれこそその最初にあったときもそうだったけど、それはまあまったくお話にならないとまではいかないけけれど、プロの作品としてはとてもじゃないが評価できるものじゃなかった。むしろそんな曲でも歌だけでうちの社長を認めさせたんだから、そのほうがすごいともいえるけど」
「なるほど」
「とにかく、それで社長が大川原さんを紹介したところからプロジェクトが始まっているんだ。ただ、やっぱり自作の曲の方が、世の中の反応もいいだろうってことでね。作詞作曲はらいむ、プロデュースを大川原さんということで売り出そうってことになったわけ。」
「へえ、じゃあ実際にはらいむさんは作詞や作曲はしてないってこと?」
「その後もしばらく自作曲をもってきたりはしたけどね。ただ、世の中に出たのはほとんどぜんぶ、大川原さんがつくったものなんだ」
「へえ」
「でも名前は出ていない。まあさすがに印税はちゃんと大川原さんのほうに入っているみたいだけどね。ただ、世間的にはあくまで大川原さんはプロデュースっていうことになってるわけ。らいむに関しては」
「まあでもさ、そういう話は他のところでもないわけではないよね。まあ大川原さんがわざわざそんな話よくうけたなって感じはしたけど」
「大川原さんとうちの社長はかなり古い仲らしくて、しかも大川原さんは社長にだいぶ恩義を感じてるみたいだね。それに確かにこんなケースはよくあることだと思う。過去の大ヒットしたシンガーソングライターだってよくあったらしいよ。それに名前だしているやつにしたって、共作名義になってて実はほとんど本人じゃないほうがつくってるとか。そして、だいたいそれで売れてくるとよくあるパターンが」
そういって有原は一呼吸おいた。わたしは、わたし自身もなんども出くわしたことがあるある結論を自分で口にした。
「やっぱり自分で曲作りたい」
「さすが」
有原が答えた。
「まあそうなるよね。まあ嘘ついているのはいやだっていうのはわかるけど」
「もうずっと、らいむ本人は大川原さんにもそんな話をしてたみたいなんだ。大川原さんは、うんざりしてたみたいだし、それにプロデュースをする条件としてむしろらいむ自身の曲はつかわずに自分の方でつくるってことも元々あげていたみたいだし。ただ、この前ついにらいむ本人から、次のシングルはもうとにかく嘘はつきたくない。絶対に自分の書いた曲じゃなきゃ出したくないって、社長に直談判があったんだよ。」
「直談判、って言葉久々に聞いたかも」
「で、社長としても、今事務所で一番の売れっ子であるらいむの言葉は無視できない。ただ、もちろん大川原さんのこともないがしろにはできない。それにね、うちの社長のいいところでもあるんだけど」
「お、なになに?」
「そもそもさ、誰が作ったかどうかよりも、曲の良し悪しで考えたいってことなんだって。らいむは歌の才能はあるけど、曲に関しては必ずしもそうじゃない。それは社長や僕らもわかってる。だからこそ、大川原さんに頼んでるわけだしね。」
「それって素晴らしいじゃん。私も社長の意見に賛成。まずは曲の良し悪しだよね」
「そう。まあ僕もそりゃそう思うんだけどさ。でも、まあそれでらいむが次のシングルはこれでいきたい、って曲を持ってきたんだよね」
「あらら」
「ところが、これがこれまでの大川原さんがつくったらいむの曲と比べても遜色ない。それどころか一番いい曲かもしれないくらいのいい曲で」
六本木に自分から来ることはあまりない。もちろん、仕事の用事が入ることはときどきあるが、そもそも意外とアクセスがよくないのだ。学生時代からこのあたりによくきていた、という同僚も少なくなかったがかえでにとってはあまり馴染みのある場所でなかった。
今日ここにきたのは、猫宮という知人の作詞家がめずらしく人前にでて、トークイベントに参加するというので、それを見にきたのである。自分以上に、六本木という場所が似合うタイプの人間ではないが、きょうは本屋さんの中にあるスペースで、最近出た『音楽の著作権はこのままでいいのか』というあまりにも直接的なタイトルの本の作者と、ゲストたちによるのトークイベントということだった。もちろん、猫宮は本の作者ではない。作者以外のゲストは音楽評論家、そして法律の専門家(弁護士らしい)、そして作詞家である猫宮、という人選だったがそのメンバーを聞く限りでは猫宮はかなり浮いているような気がした。本人曰く「今回の本で取材をうけていた知り合いの作詞家の大先生に代わりにいくように頼まれた」ということだ。
しかしこんなときでもなければ、人前で話す猫宮の姿を見ることもできないので、内心かなり楽しみにしていたのだった。
「かえでさん、遅かったですね。もう結構埋まっちゃってますけど、席とってありますよ」
入り口付近で猫宮の助手のミドリに声をかけられた。今日は手伝いがてら見にいくつもりだといっていたので、先についていたのだろう。座席は五十席くらいだが、すでにほとんどは埋まっていた。平日の十八時というのに、なかなかの客入りではないか、と思ったが普段ライブ以外のこういったトークイベントにいくことが少ないのでこれがいいのか悪いのかもよくわからない。
「ま、無料ですし。それにあの本の作者、最近テレビとかも出ててなかなか人気らしいですよ。僕はぜんぜん見たことなかったですけど」
ミドリが入り口近くに貼ってあるポスターを指差す。一番大きくのっている写真の男にはたしかに見覚えがあった。朝の情報番組で見たのだろうか。その時はコメンテーターといっていただろうか。猫宮の名前は一番下に小さく、しかも写真は猫宮が飼っている猫の写真だった。ふざけているのか、本当にいつもあの写真を彼がつかっているのか、まあそのどちらもありえそうだ。
トークイベント自体は定刻に始まった。九十分ほどの予定らしい。本を読んでいないので推測だが、どうやら内容としては「既存の音楽著作権のシステムは既得権益側の力が大きすぎる」ということが趣旨らしい。ゲストの音楽評論家は、作詞作曲者だけでなく「編曲家」にももっと権利があたえられるべきであることを殊更に主張し、弁護士は現状のルールの歴史についてその都度口を挟んでいた。たしかにかえでが見る限りでも「編曲家」はもっと評価されてもいい仕事だとは思うが、著作に関する権利を与えるべきかどうかは微妙な問題だとは思う。少なくとも自分が見るかぎり、印税などの権利はないにしても十分正当な対価はもらっているように思う。むしろどちらかといえばわたしたち音楽ディレクターやプロデューサーの方が問題なような気もしている。わたしは曲がつくれるわけではない。それなのに、曲に対して意見もし、場合によってはその曲から収入もえているわけだ。もちろん今のわたしは会社の給料をもらうだけなのだけど、それでも何かときどき引け目を感じなくもなかった。
猫宮はというと、時折話を振られると「まあそうですね」などといつもの感じで軽く流している。自分の知る限りでは猫宮も、編曲者やプロデューサの権利についてはもっと認められるべきという点については、本の作者たちのいうことと大きくはずれた考えを持っていないとは思うのだが、ほとんど話には興味がなさそうにみえた。
「猫宮さん、あまりご意見はなさそうですけど、最後に何かないですか?この中では唯一、音楽作品からの著作権収入を得ているわけですけど」
司会進行も兼ねている音楽評論家がいった。
「うーん、別にこのことで議論をしたいわけではないんですけど」
猫宮はやや面倒そうに片手をあげるようなジェスチャーをしながらいった
「なんですか?」
「僕は、まあそうですね、みなさんが音楽作品というときに何を指しているのか、そもそもその辺りからどうもピンときてないんです。たしかに、僕ら作家というのは音楽作品をつくって、それが販売などされたときにその中かそれをつくったことの権利に相当する分の金額を報酬としてもらいます。まあ印税ですね。そのシステムの是非はおいておいて、そもそもですよ、みなさんは音楽作品をつくる、ということをどう定義されているんですか。」
「それは、作詞するとか作曲するとか、そういうことですよね」
弁護士がいった。
「では、僕はどうしたら、作詞をしたことになるんですか。あるいは作曲でもいいですが、まあ僕は作曲はしないので」
「文字をかいたり、楽譜をかいたり、とか」
弁護士が答えたのに対して、猫宮は首をひねった。
「うーん、そうですね。じゃあこんな話を。例えばネルソン・グッドマンという哲学者がまあもう五十年も前の本ですけどね、こんなことを言ってるんです。「作品の正確な実例として要求されるのはただ楽譜の完璧な追従である、まったくミスはないがひどく愚かな演奏もその作品の実例となるし、一方ですばらしい演奏であっても一つのミスがあればそれは作品の実例とはいえない」と。」
「ん、つまりどういうことですか」
音楽評論家は怪訝そうな顔をしている。いつもの猫宮の話し方だ。
「グッドマンに言わせれば、音楽作品、つまり作者がつくったものというのは楽譜というものに真に現れていて、それが完璧に演奏された場合のみにそれがその作品の実例、ひとつの例示になっているということです。で、今おっしゃっていたのはそういうことですよね。作曲をするってことが、楽譜をかいたりってことなら。まあ、今時そもそも楽譜から書き始めるって人は少ないと思いますが」
「はあ。まあそういうことになりますね。グッドマン、って人と同じ考えなのかな、僕は」
弁護士が答える。
「でも、そうするとですよ。例えば、ライブなんかでちょっとアレンジして演奏した場合は、「その曲」を演奏したことにはならないことになっちゃうわけです。もちろん、その場合は作曲家に使用料なんかも入らないって結論になるでしょうね」
弁護士は猫宮のその話にすぐに反論した。
「それはおかしいですよ。実際、ちゃんとJASRACとかはライブで演奏されたものからだって徴収してるんだから」
「でもじゃあ、作曲家が実際に「作った」っていえるものって実際何なんでしょうね」
猫宮がそういったところで、「残念ですが、そろそろお時間です」と会場のスタッフから声がかかった。
最近の本の発売イベントでは、終了後にサイン会まであるらしい。一応、本は購入したが特に作者のサインには興味がなかったので、猫宮に声をかけた。「六本木なんてなかなかこないので、ご飯でも食べていきましょう。渋谷さん、どこかいい店知りませんか」と言われたので、ミドリにも声をかけて三人で食事にいくことになった。
といっても、自分が知っている店となると、そんなに大したところではない。結局歩いて少しのところにある、何度か行ったことのある中華料理店にはいった。中華といってもここでは、カレーしか食べたことがない。
「カレーが有名なんです。あとは中華そばというか、鶏そば?」
「じゃあカレー食べましょう。」
猫宮はすぐにメニューをみて注文を決める。この三人だと、自分以外は誰も飲まないので(ミドリは未成年なので当然だが)、話がはやくて助かる。きょうは別にわたしも特に飲む気はなかったので、カレーだけを三つ頼んだだけだった。
「どうでした、トークイベント?」
出された水を一口のんで、猫宮が喋り出した。
「猫宮さんは、まあ通常営業という感じでしたね、わたしからすると」
「仕事だから、通常営業なら上出来ってことですかね」
「でもたしかに、音楽をつくるって私たちもそんな言い方、簡単につかっちゃってますけど、たしかに何か具体的なものをつくっているというのとは違いますよね。例えば同じようにクリエイターでも、画家だったらそこには書いた絵というのが残るわけですけど。猫宮さんが書いた詞というのは、そこに残っている文字とかデータとかそういうものがつくったものそのものではない、っていうことですよね、最後に猫宮さんがいっていたのは」
「その通りです。まあ作詞ならそれでも、そうやって残した文字とかテキストのデータが一応創作物ってことにならなくもないような気はしますけど、作曲となるともっとやっかいです。譜面に残しても、録音に残しても、その残したもの自体がその作曲家のつくった創作物そのものというわけではない。彼らがつくったのはあくまでもメロディという概念的なものです」
「でも、メロディというのは単に概念というよりはもうちょっと、なんかこうちゃんとそこにあるものって感じがしますけど。何か具体的な存在をちゃんとクリエイトしている感じがするというか」
ミドリがいった。
「もちろんそうだよ。だから、そこを定義するのがなかなか難しい。もっとそう、哲学の言葉で言えば唯名論的に、例えばさっき話をしたネルソン・グッドマン以上にそういう傾向として、同時代くらいにそんな話をしている論者もいる。ローマン・インガルデンというポーランドの哲学者なんだけど、知ってるかな」
「私は、もちろんしらないです」
そもそも、ポーランド出身の人物でぱっと浮かぶのはショパンくらいだ。それだって、一瞬本当にポーランドだったかな、と思うくらいだった。
「僕も知らないですね」
ミドリがいった。ミドリが知らない哲学者ならば、わたしが知らないのも仕方がないだろう。
「インガルデンは、哲学の分野で言えればいわゆる現象学者です。そちらの仕事のほうも最近はまたちゃんと見直されているけれど、それでも日本で専門の研究者がいるほどではないしテキストもそれほど出回ってないから仕方ない。まあ僕もさすがに彼のポーランド語の原典までは読んだことがないんだけど、なかなか奇特な人がいて、彼の音楽作品論に関するテキストが邦訳されているんですよ。『音楽作品とその同一性の問題』という本ですね。で、その中でインガルデンは音楽作品のことを「志向的な存在」だといっている」
「しこうてき?ですか」
「そう、志す、に向かう、の志向、志向性というのはドイツ語のIntentionalitätですね。まあたしかにこれ自身もなんとも難しい表現ですが。現象学ではよく使われるけども、まあそうだな、少なくともたとえば演奏や録音といったような具体的な時間的にも空間的に固定されたようなものとはまずは違うということは言っておこうか。ただね、単に概念的対象というのとも違う。まずそれらは作曲者というの特定の人物の創造的な行為によって発生するものだ、そういう意味で志向性がある。そういう行為がなければ、そもそもこの世界に存在しえなかったはずのものだからね。ところが、一方で単に意識体験みたいなものだけで存在するわけではないんだよ。例えば、それらは演奏というひとつの現れをもっている。」
「すいません、私わかっているのか、よくわからないんですけど、もしかしてそれって例えばユーレイみたいなものですか」
「その例えは、素晴らしいです」
めずらしく猫宮が手放しでわたしの発言を褒めた。
「つまり、ユーレイって誰かがそこにいると思わないと存在しないわけですけど、かといってそこに実際に、例えば物理的に存在していたらそれはユーレイではないですし」
「それにユーレイも、本来はなんらかの創作ですよ。誰かがその存在を肯定したからそこに存在している。ユーレイというのは、一般的には死んだものが化けてそうなるというものだとおもうのですが、死という存在の消失、つまり非存在によって存在となるというのは面白いですね。」
「あ、そうだ、猫宮さん、ひとつ聞いてもらいたい話があるんです。私の同期の有原くんという子から聞いた話なんですけど」
有原から聞いた話をひとしきり、猫宮とミドリに説明しおえるとちょうどカレーが運ばれてきた。
「大川原さんか、なるほど」
「猫宮さん、ご存知ですか?」
「一度彼のプロデュースする曲で歌詞をかいたことがあって。ああ、大川原さんといえば、彼のボーカルディレクションは素晴らしいですね。」
「ボーカルディレクションってどういうことですか?」
ミドリがきいた。
「ボーカルディレクションっていうのは、レコーディングのときに、とくに歌う人に対して色々と指示を出したりするようなこと。」
猫宮にかわって私がこたえた。
「もっと感情込めて!みたいな感じのやつですか」
「まあそういうのもあるけど。歌の細かいニュアンスとか、技術的なこととか、もちろん音程があってるかとかもそうだし、それに歌う人のメンタルケア的なところもあるし、とにかくそれによってボーカルレコーディングの良し悪しがだいぶかわっちゃうっていうくらい大事なもの。私も最近やっとなんとか少しはできるようになってきたって感じなんだけど、ディレクター仕事やるようになってから先輩にかなり色々厳しく教えられたなー。大川原さんのディレクションは特にどこがすごいんですか」
「はやくて的確、迷いがない。歌う側が一番歌いやすい環境をつくってるって感じですかね。曲の一番大事な特徴をつかむ能力が高いんでしょう。まあ一度見てみればわかると思うんですが、で、どうしたんですか?らいむさん、本人が書いた曲をやりたいってことになったのだとしても、名曲を持ってこられたのならそれはそれで問題ないのでは」
「はい。それはそうなんです。曲は本当によかったから、それでいこうと社長や有原くんもそう思ったらしいんですが。ただ結局やっぱりプロデュース自体は大川原さんに頼まないと成立しないだろうってことで。でもそれを頼みにいったら大川原さんが「この曲のプロデュースはできない」っていったらしいんです」
「どうして」
「それがどうも要領を得ないらしくて。まあたしかにそもそも大川原さんはらいむが自作の曲でリリースをすることにはそもそも反対だったわけだからそれはわかるんですけど。ただ、その曲自体は聞いて、反応は悪くなかったらしいんですよ」
「なんだか、その曲を聞いたことがない状態で色々話を聞くのは想像力がいりますね」
猫宮はそう言って笑った。
「すいません。ただ、大川原さんがいうには、この曲は盗作じゃないかって。」
「盗作。それはなかなか、大胆な発言ですね。」
「つまり、らいむさんにそんないい曲がつくれるはずがない、ということなんですかね。まあとにかくそんなニュアンスのことをいって、基本的にはアレンジもプロデュースも引き受けたくないっていうことらしいです。ただマネージメントとしても、作曲もさることながらプロデューサーまでかわって雰囲気を急にかえるわけにもいかないから、大川原さんの付き人みたいなことをやっていて、最近やめたばっかりの進藤さんってアレンジャーの方に、サウンドプロデュースだけは頼むみたいなこといってました。進藤さんは大川原さんの仕事をずっと近くで見てきていて最近じゃだいぶ手伝ってもいたみたいなので、なんとかなるんじゃないかって。もちろんそれも大川原さんにはそのことを言わないといけないんですけどね、なんとなく業界のマナーとしては。でも、大川原さんが盗作だなんていうから、有原くんもだいぶ心配になっているらしくて」
「盗作っていうのは、つまり何かの曲に似てるってことですか?」
「そう思って、色々調べたみたいなんだけど、少なくとも、そこまで極端に似ている曲は見つけられなかったみたいです。ただ、どうして大川原さんがそんなことを言い出したのか、気になりますよね。」
「まあ気になるといえば、気になるかもしれないですね」
「あともう一つ」
「問題だらけですね」
猫宮は笑った。
「いや、問題というのとはちょっと違うんですけど。この曲、曲はいいんですけど歌詞はまだちょっと社長や有原くんもこのままでは出せないだろうって。それでプロの作詞家の手をかりたいらしいんです。ただ、こんな事情なのでそもそもどう進めたらいいのかなと思いまして」
猫宮の顔色を見ながら、先ほどよりもゆっくりとしゃべる。
「ああ、なるほど。」
「え」
「僕の名前だしたんですよね。」
「有原くんは猫宮さんのお名前は知ってました。すいません、なんだか私最近いろんなところでトラブルシューターだと思われているらしくて。でも本当は猫宮さんから教えてもらったことで、そうなってるって話を有原くんにはしたんです。それで」
「別にいいですよ。それにちょっと、僕も興味があります」
カレーは三人ともすっかり食べ終えていた。猫宮はそこから、少ししゃべるのをやめて黙っていた。店を出て、駅まで向かう。日比谷線で、二人とは逆方向だったのでその日はそこで解散となった。
結局猫宮は、仕事自体を引き受けるのは吝かではないという様子で帰って行った。
翌日有原から連絡があり、歌詞について猫宮に相談したいという話があった。同じ社内のレーベルなので、知り合いだった担当ディレクターのほうにも確認をとる。なぜか、社内ではもはや猫宮の担当がかえでということになっているのは周知の事実だったので(実際にはまったく契約関係などはないのだが)、担当からはよろしくお願いしたい、という連絡がきただけだった。
十日ほどがたった。有原からの連絡では、色々と懸念はありながらも楽曲そのものの制作は進行しているらしい。サウンドプロデューサーは予定通り、大川原の付き人だった進藤で進んでいるようだ。その間に、有原からはデータで、その新曲「ユーレイ」のデモ音源と歌詞が送られてきた。早速猫宮にもメールで送る。
「ユーレイ」
作詞・作曲:らいむ
僕がいなくなったら、君は悲しいのかな
君がいなくなったら、僕はどこにもいない
僕がいなくなったら、君は寂しいのかな
君がいなくなったら、僕はどこにいくの?
有原からは三日後に「ユーレイ」の楽器のレコーディングがあるので、そこにもし可能であれば猫宮と一緒にきてレコーディングの様子もみてもらいつつ、歌詞について話をしたいということだった。猫宮は電話で、レコーディングスタジオが世田谷だと聞くとやや面倒そうな声をもらしたが、それでも時間をあわせて一緒に向かうことになった。スタジオは三軒茶屋から、ふだんほとんどのらない世田谷線にのってわざわざ向かわなければいけない。雰囲気はいいが、たしかにいくのは少し面倒なスタジオだ。
猫宮とは三軒茶屋のキャロットタワーで待ち合わせをして、一緒に電車にのる。
「結局アレンジはどうなったんですか?」
猫宮が、世田谷線は好きなんですけどね、といいながらホームに一緒に入って行く。
「行っていた通り、進藤という大川原の弟子に当たる人がアレンジをするということみたいです。猫宮さん、デモは聞いていただけましたか」
「聞きました。それにらいむさんのこれまでの代表曲も何曲かあらためて。たしかに、比べてみても遜色はないですね。このデモも、その進藤さんのアレンジが入っているんでしょうけど、それをくらべても大きな差はないし、むしろ安定感がまして自信もみなぎっている、というような印象です。あとはそうですね、僕も一通り聞いた限りでは、何かの曲に似ているというのはわかりませんでした」
「大川原さんがいう、盗作なんじゃないかって話ですね。たしかに私も思い浮かばないですね。それに私も確かにいい曲だなと思いました。ただ、実際のところ、急にらいむさんがこの曲をかけるようになるものなのかっていうのがわからないですよね。今までらいむさんが本当のところつくってきた曲をきいたことがあるわけじゃないのでそこもわからないですけど、そんな急に曲作りが上達するというかよくなるなんてことあるんでしょうか」
「あるきっかけで、急に曲作りができるようになるということは、ないとはいいきれないと思いますが。」
「猫宮さんって、そういえばどんなきっかけで最初に歌詞を書きはじめたんですか?」
「ああ、大学生のころ知り合いに頼まれて書いたのが最初です」
「あの、最初から歌詞をかいてみたら、かけたってことですか」
「そうですね。最初から。」
猫宮は無表情でそう答えた。
スタジオに到着したのは十六時ごろだった。レコーディング自体は朝からやっているということだったが、この時間までかかってやっとドラムとベースを録音し終えたところらしい。
「すいません、お待たせしてしまって。ちょっとなかなか時間がかかっちゃって。ドラム録りのマイク選びからだいぶ時間つかってしまったんです。進藤さん、大川原さんにくらべてもだいぶ機材のことに時間をかける方でいろんな機材試していたらあっという間にこんな時間になってしまって。」
スタジオのロビーに出てきた有原がいった。その後、スタジオの扉があいて進藤とらいむがでてきた。レコーディングブースでは、楽器の演奏陣がしゃべりながら楽器を弾いているようだった。今は録音の間の時間、というところだろう。
「こちら、らいむ、と今回アレンジャーの進藤くんです。こちらは作詞家の猫宮さん、それから」
「渋谷です。きょうは猫宮さんの付き添いできています。よろしくお願いします。」
「進藤さん、リズム録り、ずいぶんと丁寧にやられてるんですね」
猫宮がきいた。
「ええ、すいません。だいぶこだわってしまって、こればっかりはどうも時間かかっちゃうんです」
進藤はいかにも音楽好きの青年という出で立ちで、自分のこだわりに対してなのかにやにやと笑っている。
「らいむさんは、いつも楽器のレコーディングからぜんぶ立ち会われているんですか?」
猫宮がつぎに、横に座ったらいむに声をかけた。
「ええ、必ずというわけではないですが、今回はちょっと」
といって、らいむは有原の方をちらっとみた。それを見た有原が頷いたのを確認して、さらにらいむが続けた。
「みなさんもお聞き及びかと思うんですが、今回ははじめてわたしがゼロからしっかり作った曲のレコーディングなんです。それで、やっぱりちゃんと立ち会いたいなと思いまして」
「なるほど。僕も、デモから聞かせていただきましたけど、素晴らしい楽曲ですね。完成が楽しみです。進藤さんのアレンジも、ばっちりはまっている。こちらの有原さんから、歌詞についてだけ少しブラッシュアップする相談したいということで、きょう僕はここにきているんですけど、歌詞についても僕はそんなに大きく変える必要はないと思っているんですが」
有原がそれをきいてあわてて説明をはじめた。
「ええ、猫宮さん、ご足労いただきましてすいません。私たちとしても、そのようには思っています。ただ、社長からもちょっとこのままではあまりにもらいむの個人的な嗜好がですぎているというか、今までとの差がですぎてしまうんじゃないか、ということを危惧していまして」
らいむの方をみると、一応は納得しているという様子だが、実際のところはどう思っているのだろうか。あくまで今までのものとあわせるため、という理由だけでそれを変更しなければいけないとしたら、あまり気分のいい調整ではないかもしれない。それでもらいむはいつものアーティスト写真や、動画でみせるのと同じような涼しげな表情で姿勢も崩すことなく座っていた。
「なるほど。わかりました。らいむさんにも納得していただける形で、ここからさらによいものにできるとは思いますよ」
猫宮がいった。それをみて、らいむが少し笑った。
「わたし猫宮さんが作詞された曲、ほら十年前くらいの、大好きなんです。あの曲」
らいむが口にした曲名は、猫宮が専業作詞家になるきっかけになったらしい楽曲だった。わたしの記憶にもあるが、たしかに当時相当なヒットをした楽曲である。
「それはどうも。よくご存知ですね」
「わたしもいつかあんな歌詞書いてみたいんです。今回は勉強させてください。」
「いえ、本当に僕がやることはほとんどないと思いますよ。今回は。すでにかなり出来上がっている、クオリティの高い楽曲だと思います。そうだ、ここまで録ったところも聞かせていただきたいんですけど。まだこの後も結構作業がありますよね」
「ええ、この曲もそうですけど、他の曲もきめていかないといけなくて。急に色々体制がかわったので、新曲のストックもなくなってしまって。」
有原がそういうと、進藤があ、といって手に持っていたパソコンを操作し始めた。
「僕何曲か合いそうなものつくってみたんですけど、聞いていただけませんか。もしよかったら、猫宮さんにもきいていただきたくて。らいむさんにあわせて、僕もかいてみたんです。」
「進藤くん、今はちょっと」
有原がそれを制止する。
「ああ、ぜひ聞かせていただきたいところですが、時間もあると思うので。そうだ、もし有原さんのほうで問題なければ、あとでメールででも、デモ音源を送っていただけたら嬉しいです」
猫宮がいった。猫宮は進藤の楽曲に興味があるのだろうか。
「ええ、もし猫宮さんにも聞いていただけるなら。たしかに、らいむの今後のリリースにもつながるかもしれませんし」
有原が進藤にかわってこたえた。
「あ、それじゃあ私のメールアドレスに」
そういって、わたしは進藤に名刺を渡した。
「すぐに送っておきます」
その後、スタジオに移動して、「ユーレイ」のここまで録れている分を聴かせてもらった。時間はたしかにかなりかかっているようだが、その分いい音でとれているのはわたしにもわかる。ドラムの音は伸びやかで軽快だが、ハイハットやシンバルの繊細な表現も失われていない。ベースはここからでは誰なのか見えていないが、相当が腕だということは感じられた。
「良い感じですね。ボーカル録りはいつの予定ですか?」
「ボーカルは一応十日後くらいに予定しています。すいません、歌詞についてもそれまでにということで大丈夫でしょうか」
「ああ、ええ、それは大丈夫です」
進藤はスタジオの一番端にたって、満足そうにできあがりつつある曲をきいて体でリズムをとっている。らいむは、パソコンの画面をみながら歌詞を確認しているようだ。
「あ、進藤さん、さっきのメール届いてます。曲のデモが」
「ありがとうございます」
進藤が身を乗り出していった。
「猫宮さん、後で送っておきますね。えっとタイトルが「木星」とか、あ、これ面白いですね。「ロサンゼルス六時十分発」とか。」
「なんか口に出されるとちょっと恥ずかしいですね」
進藤がそういいながら笑った。とはいいつつも、曲には自信がありそうな顔をしているように見える。そもそも自分から言いだしたのだし、彼のアレンジしたものを聞く限りでもそれなりの楽曲は当然できているのだろう。
「それじゃあ、僕らはそろそろ行きましょうか。歌詞も進めたいし」
猫宮がそういって立ち上がった。
「わかりました。」
「それじゃあらいむさん、進藤さん、引き続きよろしくお願いします」
そういって、猫宮がスタジオをでようとすると後ろから、お見送りしますといって有原が出口近くまでついてきた。
「ああ、そういえば有原さん、いくつかお願いがあるんですが」
猫宮がいった。このシチュエーションは以前、はじめて猫宮にあったときにもあったような気がする。となると、猫宮はなにか、別のことに気づいているのかもしれない。もしわたしや、会社を通じて猫宮に仕事をうけてもらうということであれば、それこそ盗作やゴーストなどといった問題に巻き込むわけにはいかない。しかし、猫宮であれば、問題にはあらかじめ気づいてくれそうな気もしていた。彼になんの考えもなく仕事を引き受けるわけもないだろう、という確信はなぜかある。
「ええ、なんでしょう」
有原がすぐに答えた。
「せっかく進藤さんのデモもいただいたので、もしよかったら、らいむさんがこれまで自分でつくったという曲のデモも、もし何かあれば聞かせてもらえませんか?ちょっと歌詞の参考にもしたくて」
「え、あ、ああ、まあないことはないんですが、あの、渋谷さんには伝えてあります通りで、そんなにお聴かせするようなレベルのものではないんです。本当にあの、今回の「ユーレイ」だけは特別っていうくらいの出来で」
「いえ、いいんですよ。参考までに、ということなんで」
「それじゃあ、これも渋谷さんのメールに後で送っておきます」
「ありがとうございます。それともうひとつ」
「はい」
「差し出がましいようですが、今度のボーカルレコーディング。ここだけは、どうにか大川原さんにきていただいて、ボーカルディレクションだけはお願いするのがいいんじゃないかと思います」
「いや、しかしそれは」
有原は悩ましげな表情だった。たしかに彼の立場からもう一度頼むのは頼みづらいだろう。
「お願いしますね」
猫宮は念押しして、そのままスタジオを出た。
帰り道は同じ道だったが、住宅街だからかもうすっかり周りは暗くなっている。
「猫宮さん、やっぱり大川原さんの力は必要だっていうことなんですか?さっきのレコーディングをみて。今のままだったら、進藤さんがボーカルディレクションもやるってことなんでしょうけど。たしかにちょっとあの人はこう、いわゆる純粋な音楽好きっていうか、作曲家アレンジャーさんっていう感じの方ですよね。クリエイタータイプというか。売れる曲つくるぞっていうよりは」
「まあそういうタイプといえばたしかにそうですね。でもまあその辺は経験もありますから。それと気になっているところで言えば、僕はもう一つ、やっぱりこの曲に対して大川原さんがどういう反応なのかというところを知りたいんですよ」
それは、大川原による曲自体への感想が本音ではなかったということなのだろうか。
「でも、大川原さんはそもそもこの曲に対しては盗作なんじゃないかっていってるくらいだから、そうやって呼んだとしても、実際参加してもらえるんですかね」
「その盗作問題もありますが、そもそもは曲に対する反応は悪くなかったわけですよね。たしかに盗作かもしれないなんて曲に、自分が関わるというのはあまり積極的にはなれないかもしれないですが、ボーカルディレクションというところだけで名前があがらないのならそのあたりは大丈夫じゃないかという気がしてます。アレンジやプロデュースならともかくね。少なくとも、その形ならこの曲は大川原さんが「つくった」ってことにはならないんですよ。そして、まあやっぱりボーカルディレクションだけは大川原さんが関わるかどうかで、大きく変わってくると思います」
猫宮は、大川原のボーカルディレクションについては絶賛しているようだ。おそらく、レコード会社の中でも、ボーカルディレクションに関してここまでの評価をうけているディレクターはほとんどいないだろう。わたしも、いつかは「渋谷かえでといえばこれ」と言われるものを、もつことができるんだろうか。そもそもそんなものを持っているディレクターはほとんどいなくて、ただヒットした曲に「なんらかの形」で関わっていたということしか売りがない人がほとんどなのだけど。
「私からも、もう一度プッシュしておきます。あ、そういえばさっき有原くんからメールがあって、らいむさんが作ったデモも届いてますよ。「ラベンダー」とか「コーヒー」とか、タイトルはなんかシンプルですね。あ、「ユーレイ」の弾き語りのデモっていうのも入ってますね。らいむさんは、ギターの弾き語りで曲をつくってるっていってたかな」
「「東京」って曲もあるでしょう?」
「あ!あります。え、猫宮さん知ってたんですか?」
「いや別に」
「え、じゃあなんで」
「まあ、それは大したことじゃないんです。それじゃあとりあえずそれ、送っておいてくださいね。大川原さんの件、進んだらおしえてください。歌詞の方は三日後くらいには調整して送りますよ。」
「わかりました。猫宮さん、あの」
「どうしました」
「なんかまた、やっかいな仕事に巻き込んでしまっているような気がして。すいません」
これは素直な気持ちだった。ただ一方で、猫宮がこの案件をどうまとめるのかということにも興味がある。大川原の評判とくらべても仕方がないのだが、わたしにしてみれば猫宮のある種の問題解決能力も他にみたことがないものだった。
「いえ、このくらいぜんぜんやっかいのレベルじゃないですよ。それに僕にとっても、ちょっと気になってたことでもあるんで。じゃあ、僕はちょっと寄り道してかえります」
「はい。ではまた。今度またスタジオに伺います」
「ええ、いつでも」
猫宮が気になっていたこと、とうのがなんのことなのかはわからなかったが、それを聞く前にもうすでに猫宮は歩きだしていた。
猫宮からは、言われた通り三日後には歌詞の直しがきていた。たしかに大きくかわったところがあるとは思えないが、部分的にブラッシュアップはされており、たしかにわたしの目からみてもこちらのほうがより音とのハマりがよいことはわかった。わたしも最近では、歌詞やメロに「何かが足りない」ときがわかるようになってきている。でも、それが正確になんなのかがすぐにわかるわけではないし、ましてやどう修正すればいいのかはわからない。きっとそれは音楽をこれからつくっていく仕事には必須の能力なのだろうとずっと思って来たが、プロの仕事をみるとそもそもそれがいずれ身につくものなのかどうかすらわからなくなってくる。
「おお、そういえば渋谷は今度はらいむの案件に関わっているんだっけ?」
久々に会社であった課長に呼び止められた。最近は現場に直接ということも多く、会社で必ずしも上司に頻繁に顔を合わすわけでもない。
「はい。作詞に猫宮さんに入ってもらっていて、それもあって」
「ああ、猫宮さん」
うまくいっているようでなにより、と上司は言った。
「そういえば、課長はプロデューサーの大川原さんとはお仕事されたことありますか?」
「ああ、らいむのプロデューサーの。結構前だけど、あるよ。それが?」
「いえ、今回もボーカルディレクションだけは頼みたいって話で。」
「なるほどね。ああ、たしかにきっと渋谷も見てみたら勉強になると思うよ。あれはなんというか、センスなのかもしれないけれどね。まあしかし次のシングルはらいむの勝負だからね、次のステージにいけるかどうか」
「あの、課長、私たちっていつも次は勝負の曲とか、今年は勝負の年とかいってませんか?」
「それは、つまり」といって課長はもう次の次の会議のある会議室に向かっていた。「いつだって勝負だってことだよ」
有原から、大川原がボーカルディレクションを引き受けた、という連絡があった。レコーディング当日は、らいむ、有原、と大川原が参加するらしい。進藤がこないのは、有原の気遣いだろうか。たしかに、彼は大川原のところを辞めた身ではあり、実際現場でその二人の意見がぶつかるようなことがあったら、あまりいい雰囲気とはいえないものになるだろう。レコーディングは先日と同じスタジオで行われるということだった。猫宮とも同じ場所で待ち合わせたが、きょうは猫宮から「スタートからちゃんといきましょう」と連絡をもらったので、十時半に三軒茶屋まで出向いてくることになった。我々の世界としては早い時間、とはいえ電車はもうすでに朝のピークは超えている。
「猫宮さん、そういえば送っていただいた楽譜、印刷してきました」
「ああ、どうも。一応歌詞を書くときに、ボーカルの部分を楽譜に起こしたんで、一応何かに使えるかなと思って」
「え、いつも猫宮さんが用意されるんですか?」
「いや。しないですよ。ただ、きょうはほら進藤さんもいないのなら、もしかしたらこういうの作る人もいないんじゃないかって思って、現場で欲しいってなったらあれですから、どうせつくってあったものですし。すいませんね、急に印刷頼んじゃって」
「それはいいんですけど。私も助かります」
スタジオにつくと、ほとんど同時にらいむや有原もスタジオに入って来た。中ではレコーディングエンジニアがマイクの準備などを始めている。大川原はまだきていないようだ。
「猫宮さん、おいそがしい中ありがとうございます」
有原がいった。らいむも横で頭をちょんとさげて、ありがとうございました、といった。
「とってもいい感じになって、それに元のニュアンスもしっかり残していただいて、やっぱり猫宮さんにお願いしてよかったです」
「ああ、ご本人にそういっていただけるならよかったです」
「それに、今日もありがとうございます。わざわざ来ていただいて。いつもボーカルレコーディングにはいらっしゃるんですか?」
「いけるときは参加してますよ。あ、そうだこれ」
そういって猫宮は楽譜を渡す。
「え、これ」
「歌詞をかくときに譜面起こししたんで、よかったら。といってもらいむさん、歌うときはわざわざ譜面で確認したりはしないですかね」
「いや、そんなことないです。あったほうがわかりやすいです。それに、今までの大川原さんプロデュースのときもあったし、あ、でもあれは進藤さんとかがつくってくれてたのかな。なんかあるほうが落ち着きますね。」
「まあ、あんまり楽譜にとらわれすぎず歌ってください。っていってもそのあたりは大川原さんがうまく導いてくれると思いますけど」
猫宮はそういって笑った。
スタジオにらいむが入り、声出しをはじめる。有原によれば、らいむはほとんど数回歌うだけですぐに本番の調子に合わせることができるらしい。いつもこのスタジオで歌をとっているようで、機材のセッティングはすでに終わっていた。
しばらく声出しをしているらいむの様子をスタジオのコントロールルームから全員で見ていると、そこに大川原が入って来た。紺のジャケットに、白いパンツ、靴も革靴でここにいる誰よりもフォーマルな服装だった。どれも高級品なのだろう。後ろから若い男性のスタッフも入って来た。マネージャーだろうか。
「おはよう。ああ、猫宮くん、お久しぶり」
「お久しぶりです。大川原さん、きょうはよろしくお願いします。無理言ってすいません」
「いや、いいんだよ。久々に猫宮くんと仕事というのも楽しみだし」
「こちらは渋谷さんです。レーベルの方。」
「どうぞよろしく、大川原です」
もちろんメディアなどでは見たことがあったが、直接会うのは初めてである。たしかに、いかにも仕事ができそうといった身のこなし、そして喋り方である。威厳があるが、かといって排他的ではない。背は高くないが、この一瞬の挨拶でも強く目を見て話しかけてくる感じに圧倒される人も多いだろう、と思えた。
らいむはスタジオのブース側からマイクを通して大川原に挨拶をする。
「ああ、らいむはいいよ、そのままで。とりあえずそこでちょっと歌ってみようか」
「はい。お願いします」
「大川原さん、こちら歌詞と譜面です」
猫宮が自ら、大川原に印刷された紙を渡した。
「悪いね、ありがとう。ああ、それにしてもいい歌詞になったね。もともと曲も歌詞も悪くなかったけど、これでしっかり新しい時代感というか、まあ有り体にいえばオリジナリティも出たと思うよ。猫宮くん、ありがとう」
「いえ、まあこれが仕事ですから」
「最近のシンガーソングライターはやたらと、自分だけの力で書きたがる人が多いし、むしろそれが当たり前に思ってたり、自分でつくったものじゃないと言葉がファンに届かないなんて思っているような子が多いからね。それにスタッフもそうだったりする。たしかにそういった力をもったシンガーソングライターもいるけどね、そんなのはごく一握りだ。歌を歌う力をもったものはそれだけで十分素晴らしい能力なんだから、それ以上のことは周りがしっかりつくってやればいいんだけど、どうもそれをわかってない人が多いね。そう思わないかな、猫宮くん」
「そうですね。まあ曲が良くなれば、僕にとってはそれがすべてです」
「ああ、そういうことだよ」
スタジオのコントロールルームで話していることは、もちろんブースにいるらいむには聴こえない構造になっている。話したいことがあるときは、トークバックマイクのスイッチを押して話すのだが、かえではいつもこれを押すタイミングが難しいな、と思っていたところだった。スイッチはもちろん、今大川原の前にある。
「さあ、それじゃあいってみようか。「ユーレイ」、名曲になりそうだ」
「ユーレイ」
僕がいなくなったら、君はどこにいるの?
君がいなくなったら、僕はどこにもいない
僕がいなくなったら、君はだれといるの?
君がいなくなったら、君はどこにいくの?
レコーディングは実に順調にすすんだ。らいむは確かにかえでが今まで見た中でも抜群の実力を持つシンガーであることは間違いなかった。ひとことでいえば対応力が素晴らしく、一度歌った後にディレクションで指示されたことに対して次のテイクでは120%で返してくる。つまり問題を解決した上でさらに別の解釈も加えてくるのである。こういう場合たとえばオリジナリティのある解釈を加えてくる人はいても、指示に対してそれをクリアした上でそこにのせてくるというのはなかなかできることではないだろう。それに彼女の歌は、透き通るような歌声でいて、力強さも持っている。まさに「多くの人に届く歌」とはこういうことだということをその声だけで納得させるものだった。さらにいえば、我々がよくやるような録音後の編集もほとんど必要ないだろう。
さらに猫宮がいっていたように大川原のディレクションは、まさに的確といえるものだった。猫宮がそういっていたからという先入観はなしにしても、この曲のポイントはサビとそれ以外の部分の温度差だ、と大川原はいった。まさに、ユーレイの冷たさと、しかし一方でユーレイというのはもともとは「人間」であったわけだ。それを歌の息遣いで表現する、ということをまず大川原が説明した。これにすぐに答えられるらいむにも驚いたが、それを的確に表現していく大川原はやはり売れっ子プロデューサといわれるだけのことはある。
「猫宮くん、なにかあるかな」
「いや、とてもよいと思います。それに、僕もいろいろと勉強になりました」
猫宮はそういったが、私には少し気になっていることがあった。言語化はできていないが、この曲をこのまま出していいのかということについてやはり最初の大川原の反応などを含めて気になっているのだろう。
「それじゃあ、私はこれで。このあとミックスやなんやもあるんだろうけど、それは進藤くんやみんなに任せるから」
「ありがとうございました」
らいむと有原、そして猫宮がいった。猫宮は大川原が出ていくのを見届けてから、
「それじゃあ渋谷さん、僕らもいきましょうか。みなさん、完成を楽しみにしています」
「猫宮さん、あの私」
「ああ、話は帰りがけにでも」
「渋谷さん、何か心配事でも?」
「いや、あのやっぱりこの曲って本当にこのまま出しちゃっても大丈夫なのかなって」
猫宮は無表情でこたえた。
「いい出来になって来たと思います」
「それはもちろん、きょうのレコーディングも素晴らしかったですし。ただ、そもそもやっぱり最初の話が気になっちゃって」
「ああ、この曲が盗作じゃないかとか、そのことですか」
「そうなんです。でも、大川原さんもきょうは結局普通にレコーディングしてたし、気にしなくていいんですかね。まさか大川原さんの曲を盗作したってことではないだろうし。それなら、さすがにあんな風には関わってもらえないですよね。」
「ああ、盗作ってそういうことだと思ってたんですか。なるほど。でもそれは大丈夫です。あの曲は、大川原さんがつくったものではないですよ」
猫宮は確信めいた言い方をした。
「そうなんですか」
「それは間違いないです。ああ、でもそんなに気になるなら、僕もこの後ちょっと一つだけ確認したいことがあって、進藤さんとあうことになっているんですが、どうですか渋谷さんも一緒に」
猫宮はしらないうちに、遠藤と話す約束をしていたらしい。曲の出来はたしかに間違いないが、このままでは何かもやもやとしたものが残ってしまいそうな気がしていたわたしは、猫宮の誘いにのることにした。
今度はタクシーで移動して、猫宮と一緒に駅の近くにイタリアンの店に入った。チェーン店でもないのに、24時間営業らしい。たしかに今まで何度か前を通ったことはあったが、入るのは初めてだ。
「進藤さんは先に入ってもらってるんですが、ああ、いましたね」
「猫宮さん、どうも。渋谷さんもいらっしゃったんですね。」
席に座っていた進藤が話しかける。
「すいません、急にお邪魔して」
「いや、ぜんぜん大丈夫です。どうでしたレコーディングは」
進藤はすでにビールを飲んでいるらしい。メニューをみると、ソフトドリンクもかなり種類があったが、とりあえず二人ともオレンジジュースを頼んだ。
「順調でしたよ。進藤さんのアレンジも素晴らしいですね、ありがとうございました」
「そうでしたか、それはよかったです。それにお礼をいうのはこちらです。猫宮さんのおかげで歌詞もとてもよくなって。「ユーレイ」というテーマにもよりぴったりになったと思います」
「そういえば、遠藤さん、この曲の今の所の仮タイトル「ユーレイ」というのは、僕はこのままこれが本タイトルでもいいかなと思うんですけど、どうですか?」
「いや、それは僕の口からは。猫宮さんやらいむさんが決めることかと」
猫宮はそれを聞くと、少し笑って
「ユーレイのユーは幽玄の幽ではなくて、アルファベットのU、ですよね?」といった。
「え、そうなんですか?」
私は思わず声をあげた。
「猫宮さんは、どうしてそう思ったんですか?」
進藤がきく。表情は少しこわばっているようにみえた。わたしはどちらの表情に関してもその意味がわからず、ふたりの言葉を待つだけだった。
「さっき帰りがけに渋谷さんが、この曲を出すことに少し心配していたんです。それはきっと、大川原さんが最初にこの曲について盗作じゃないかっていったことも理由にあるんでしょう。もしかして、大川原さんのつくった曲をらいむさんが勝手に使ったんじゃないかってそういう風にも思ったわけですよね、渋谷さん」
わたしは猫宮にそうきかれたので、思った通りのことを答えた。
「はい、そうです。でもそれが何か関係あるんですか?それに今日、大川原さんが来てくれたことで、少なくともそれはないなと思えました」
さすがに自分の曲を勝手に使われていたとしたら、抗議こそすれ協力するということはないだろう。それとも、そのような何か取引が行われた、なんてことがあるのだろうか。
「ああ、もちろん、あの曲は大川原さんがつくったわけではないですよ、ねえ進藤さん?」
「どういうことですか」
猫宮がさらに確信に満ちた顔でいう。
「そもそも、今までのらいむさんの曲も、大川原さんがつくったものではないですよね。もっといえば、おそらくはらいむさんの曲以外もそうではないかと僕は思っているんです。」
わたしは驚いて、おもわず勢いよくグラスを机にぶつけてしまった。隣にいたカップルらしき客がその音でこちらをみたが、進藤はかわらず猫宮のほうを凝視していた。
「本当に?じゃあ大川原さんが作曲していた曲っていうのは、本当は大川原さんがつくったものではないってことですか。どういうことなんでしょう。というか、そんなことどうしてわかるんですか?」
わたしがそう聞くと猫宮はゆっくりと話し始めた。
「実は、以前大川原さんとご一緒したときのことですが、そのときは二曲を一日でレコーディングしたんです。そしてそのときも、今回のように僕が楽譜を用意したんです。でもね、どこで間違ったのかその二つがそれぞれ逆の曲の楽譜として、大川原さんに渡されてたんですよ。僕はそれをたまたま見てしまったんですが、それでもレコーディングはそのまま最後まで進行したんです」
「どういうことですか?」
進藤がきいた。
「大川原さんはそのとき、楽譜をまったくよんでなかったんだと思います。そして、おそらくはまったく楽譜がよめないんでしょう。もちろんですから曲をかく、ということもできないんじゃないかと、僕が思ったのはそういうことです。もちろん譜面を正確にかけなくても、作曲ができないわけではないですが、あのくらいのメロディ譜がわからないとなるとさすがに、それもなかなか難しいでしょうね」
「え、でも大川原さんは、そうだとしたら、それでずっと音楽プロデューサをやってきているってことなんですか?」
「曲がかけなくたって、楽譜がよめなくたって、別に問題はないですよ。極端にいえば求められていることができれば本来はそれでいい。それに僕は前にいったと思いますが、あのボーカルディレクションの能力はあれだけで十分に彼の仕事を、仕事として成立させるものです」
でも、と進藤が口を挟んだ。もちろん、もしこのことが事実だとしたら進藤はそのことを知っていただろう。
「猫宮さんがみたそのときの入れ替わっていたという楽譜、それはその時あえて大川原さんが、わざわざは言わなかっただけのことじゃないんですか。もし、自分でつくった曲だったら逆にメロディくらい覚えているだろうから、進行する上でも問題ないしあえて入れ替わっていることをいうまでもなかったとか」
「ええ、僕もその可能性はあるとそのとき思いました。だから別にその時はそれだけのことだとおもって、先日まで特にそのことには触れずに。なんならもうすっかりそんな話は忘れていたんですけどね。ただの僕の思い込みかもしれないし、別にそうであってもどちらでも世に出ている曲はいい曲ばかりだった。そのときのレコーディングもそうです。僕も曲の出来にはなんの不満もありませんでしたよ。そうそう、今日進藤さんがいらっしゃらないということで僕がレコーディング用の譜面をつくってきたんです。これを」
なるほど、そういうことか、とわたしは思った。猫宮は進藤に楽譜をわたす。
「猫宮さん、もしかして大川原さんにだけ違う楽譜を渡していたんですか」
「ええ、すいません。もし大川原さんがそれに気づいたら、ただ僕が間違えたといって謝ればよかっただけの話なんですが、ちょっと今回は手の込んだことをしてしまいました。とにかく、今回の「ユーレイ」に関して言えば、作曲はらいむさん、ということになっている。自分のかいた曲ではないなら、なおさらそのメロディは一応楽譜と確認して、もし歌っているメロディと楽譜が違っていたら当然音楽プロデューサーとしてはそれを言わざるをえないですよね。でも、今回レコーディング中、そのことについて触れられることは一度もなかったんです」
もしそれが本当だとしたら、猫宮がそこまでのことをしていたということも不思議だが、それ以上に大川原がまさか譜面もよめないでずっと音楽プロデューサーを続けていたという事実にも驚かざるを得ない。しかしそうなってくると、ではいったい今までの曲は誰がかいていたというのだろう。特にらいむの曲に関していえば、ゴーストライターのゴーストライターがいたということになるのだろうか、と思ってわたしは自分の想像にむしろ少し笑ってしまった。
「どうしたんですか?」
猫宮がその様子をみて、訪ねてきた。
「いや、でも、ということはらいむさんのゴーストライターである大川原さんにもゴーストライターがいたってことなんですか?ゴーストのゴーストが。え、ってことはもしかして」
「進藤さん」と猫宮が進藤に話しかけた。「僕としてはこのことがわかったところで、特に公にしようという気もないですし、さっきも言ったようにむしろ世の中に出ている曲さえよければそれでいいんです。もちろん、ゴーストライターがそのことで実害をうけているとか、例えば書いた曲をぜんぶ無理やり大川原さんのものにされているとかね、そんなことでなければ何も問題は無い、とは思っているんですよ」
それをきいて進藤がしゃべりはじめた。
「大川原さんは、自分の名前で出した方が売れることになる、とおっしゃってました。その方が結果的に作家にとってもよいと」
これではほとんど、大川原には実際にゴーストライターがいたことを認めているようなものだ。もはや進藤にとっても、隠すことでなくなったということだろうか。
「まあ、それは大川原さんがそういっていて、実際に曲を書いている人たちも思っているんなら、正しいんでしょうね。それに確かに大川原さんは、そうやって書かれた曲の中でどれが売れるのかとか、そんなことを見抜く力もあったのでしょう。ただ、今回の「ユーレイ」に関してはどう思ったか。おそらく、曲をきいた大川原さんは、「これは自分の曲をかいていた人が、つまり自分のゴーストがかいた曲だ」とすぐわかったんでしょうね。だから、それをらいむさん本人がつくったもののわけはない、それがらいむの自作曲として出てきてるのであればそれは「盗作」だろうと、最初に考えたのだと思います」
「もしかして、進藤さんがつくっていたんですか?ずっと」
わたしがそれに気づいて進藤の顔をみたとき、進藤も同じようにこちらをみていた。おそらく、もう猫宮は全部わかっている、であるならばここですべてを話した方がよいのだろうか、という確認だったように思えた。
「「ユーレイ」も進藤さんがつくられた曲ですよね。それをらいむさんに渡した。大川原さんはおそらくこれは進藤さんがつくった曲だということもわかったんでしょうね」
猫宮がそういうのを最後まで聴き終えると、進藤は、ビールを一口のんで頷いた。
「はい。それで大川原さんのところはすぐにやめることになってしまいました。」進藤がゆっくりと答える。「ただ、らいむさんには、僕がつくったということは伝えてありません。匿名で、この曲を自作曲として発表してほしいというメールをしました。らいむさんが、どこまで気づいているのかわかりませんが」
「らいむさんは、あなたが思った通り、「ユーレイ」を自作曲として発表しようとしたんですね。」
「猫宮さん、進藤さんはわざとそうなるようにしたってことなんですか?」
「進藤さんは、らいむさんの、そして大川原さんのゴーストでもある。ふたりがこう動くだろう、こうなるだろうっていうことはわかっていたんでしょうね。」
三人はその後、1時間ほど曲についての感想を話しただけだった。「ユーレイ」という楽曲が、ゴーストライターによってかかれたこと、むしろゴーストライターのゴーストライターによってかかれたということ自体については結局それ以上、誰も触れることはなかった。猫宮は曲についても、アレンジについても進藤の仕事を絶賛していたと思う。たしかにわたしからみてもそれらはまさにプロフェッショナルに洗練されたメロディであり、サウンドも時間をかけた丁寧で贅沢な仕上がりになっている。猫宮と言う人は曲やクリエイティブに対する評価を実にシンプルに行なっている。いい曲だと思えば、その内容について語るし、そうでなければほとんど何も感想を言わないのだ。きょうまでの付き合いでそのことは少しだけわかってきていた。そして彼はもうひとつ、大川原のプロデュースワークについてもその仕上がりについて、ただ賞賛の言葉を並べていた。彼に言わせれば、それぞれにもっとも重要なやるべきことがある、というのが音楽制作なのだ、ということなのだろう。わたしはこの曲の中で何ができたのだろうか。
「猫宮さん、進藤さんはどうしてあんなことをしたんですか」
帰り道に二人になったあとに、わたしは猫宮にきいた。
「自分の曲が、大川原さんの名前を使わなくてもちゃんと評価されるのかどうか、それを確かめてみたかった、と考えるのがまあ普通でしょうね。」
「でも、それなららいむさんでそれをやらなくたって、新しく自分で曲を書いてみれば」
「それじゃあ、検証実験にならない。同じ条件で、いやむしろらいむさんが書いたということになればむしろこれまでらいむさん本人がいい曲をかけてなかったこともあって、むしろハードルは上がるはずです。この条件で選ばれることがあれば、その楽曲は本当に間違いないものということになる。ただ」
「ただ?」
猫宮は神妙な顔で言った。
「そんな曲でも、売れるかどうかはわからない」
「それは、たしかにそうですね」そういえば、とわたしは思い出した。「猫宮さんは、どうして「ユーレイ」を進藤さんがかいた曲だってわかったんですか。他にもゴーストライターの候補がいたとしてもおかしくないはずなのに。それに、もしかしてユーレイのユーがアルファベットのUだっていうのも関係あるんですか?」
「UはユナイテッドのUですね」
「ユナイテッド?アメリカのことですか」
「ユナイテッドレコーディングエレクトロニクスインダストリーズ、頭文字をとってU-REI。実際にはウーレイと発音するのが通例なんですけどね」
わたしは自分が時折、スタジオでその文字をみていたことを思い出した。いつもエンジニアさんが触っているあの箱のような機材にその文字が書いてあったような気がする。
「ウーレイって、スタジオによくおいてある、あの機材ですか?」
「そうです。有名なのは、U-REI 1176というコンプレッサーですね。レコーディングスタジオだったら、どこのスタジオにも置いてある有名な機材ですし、プロのミュージシャンでも自分で所持している人も結構いますね。」
「あーわかります。え、でもそれのことなんですか。でも、そういえば、コンプレッサーって結構使い方というか、効果がなかなかわかりにくい機材ですよね。わたしもこの仕事について、レコーディングスタジオで色々と勉強するまではぜんぜん存在すらしらなかったです。」
「進藤さんは、まあ渋谷さんも分かったと思うんですけど、作曲家には時々いるタイプというか、とても楽器や機材にこだわる人だなと感じました。そして、これはその中でもちょっと特殊なことなのかもしれませんけど、ずいぶんと機材からインスピレーションをうけて楽曲をつくるタイプのようです。たしかに、例えばヴィンテージの機材の中にはそれを使わないと絶対に得られない音色を持つものもあります。その音色から作曲のヒントをえること、というのはありえないことではないでしょうね。例えば詞をかくときに、古典から引用したり、オマージュをしたりといったことと同じように」
「じゃあ、「ユーレイ」はU-REIからインスピレーションをうけてできたってことですか?」
「進藤さんから、楽曲を送ってもらいましたよね。何曲か」
「ああ、ロサンゼルス、何分発でしたっけ」
「六時十分ですね。LA-2Aという機材があります。これもコンプレッサーなんですが、これとM610というマイクプリをあわせた、LA-610というチャンネルストリップというマイクプリとコンプをあわせたような機材がありますね。ちなみにLAというのはレベリングアンプリファーのことですが、まあロサンゼルスとよんだということですね。そういえば、最近はロサンゼルスのことをロスという言い方をしなくなって、L.Aという人がおおい。たしかにロスだと、英語でいえばtheの部分ですから、変な略し方だったということなんでしょうね。」
わたしは他のデモ音源のタイトルを思い出して、記憶にある楽器の名前と照らし合わせてみた。
「木星、というのもありましたね。Jupiterって、たしかシンセサイザーでそんな名前のものありましたけど、もしかしてそれのことですか」
「ええ、あのデモ音源ではJupiter-8の音が使われてました。Jupiter-8や、U-REI1176のようにもう新しく生産はされていないけど、それでも現役で使われる機材たちというのをきっと進藤さんのような方がこれからも大事に音楽制作の中でつかっていってくれるのは、とても楽しみです。今ではほとんどがプラグインといって、ソフトの中で再現されるものばっかりになってしまいましたが、そうやってちゃんと本当に大事なところでは実機も残っていくのが面白いところです。もちろんプラグインソフトにはそれはそれで良さもありますけどね」
「ユーレイですね」
「どうしたんですか、渋谷さん」
「プラグインソフトっていうのも、ユーレイみたいですね。実際にそこにものは何もないのに、何かしら機能を果たしているっていうのは。しかもその大元になった機材には実態があるってところも」
「ああ、なるほど。それじゃあ僕らはこれからの時代の霊能力者ですね」
ユーレイという曲をだれがつくったのか、ゴーストはいたのか、そんな話はきっとこの曲をきくほとんどの人にとってまったくどちらでもいい問題だろう。有原の会社の社長がいうように、あるいは猫宮もいうように、それを聞く側にとってまず重要なことはその曲がどんな曲なのかということだ。ただ、その作り手と聞き手をつなぐ役目である自分たちだけは、少なくともこの曲をかいた人間たちのことを忘れてはいけない、とも思った。きっとそれを忘れてしまったら、きっと曲は志向的な存在ではなくなってしまうのだろう。わたしたちがそれをつくった人や、歌った人を覚えているからこそ、その曲がまさにその曲であることが、確証される。
何気なく取り出したスマホをみると、有原からのメールが来ていた。内容をみて、そのままそのメールを猫宮のメールアドレスにも転送した。
「猫宮さん、きょうの歌の録音が届いてます。わたし、イヤホンで聴きながら帰りますね」
「僕もそうします」
「あの、帰る前にひとつだけいいですか」
「どうしました?」
「わたしは、この曲に、ユーレイじゃなくて、そう、なにか残せたんでしょうか。音楽に関わる人間として」
猫宮はほんの少し口元で笑って、うなずいた。
「僕はユーレイに頼まれても歌詞をかいたりはしない、ですからね」
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