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「テセウスの船」で考えるアイドルグループ 走り書き20200208

今、テレビドラマ「テセウスの船」が人気だ。僕はタイトルが気になって、原作の漫画を初期から読んでいた。
 なぜこのタイトルに惹かれたかというと、この「テセウスの船」という言葉、これを僕は10年も前、つまり学生時代から哲学研究の重要なテーマとして気にし続けていたからだ。「テセウスの船」とはとあるパラドックスである。これはひとつの思考実験で、哲学的研究の対象でもある。僕は、「同一性問題」と言われる哲学の最重要問題のひとつを考えるときに、このテセウスの船のパラドックスを重要なヒントとしていた。
 そして今、僕はなぜか作詞家の仕事をしている。そして僕がよく歌詞を書いているアイドルたち、アイドルグループたちは実はこの「テセウスの船のパラドックス」について考えるもっともよい対象だ。(今では哲学をテーマにしたアイドルの歌詞も書いている)。そこで、もう一度アイドルグループの「同一性問題」として、テセウスの船のパラドックスを考えてみたい。


テセウスの船のパラドックス

テセウスの船、というのはギリシャ神話における話が由来となった問題である。

つまり、ある何個かの部品からつくられた船のパーツを置き換えて行った時、その船は元の船と同じといえるだろうかというものだ。
(*テセウスとは人名であってここではそれ自体には大きな意味はない。)

これではパラドックスとはいえないからもしれないので、もう少し問題を具体的にかつ簡単に置き直してみよう。

 今、簡易的に30枚の同じサイズの木の板だけからできた船があるとする。これをテセウス号と名付ける。この船が老朽化してきたため、古くなった部分から一枚ずつ板を取り替えていく。一枚かえたくらいでは、これはテセウス号に間違いないだろう。しかし十五枚も変えたらどうだろうか、半分の板がかわってしまったらそれはもともとの船とはだいぶ違うものに思える。そして、三十枚全ての板が最初のものと入れ替わった船(A号とする)、それは元のテセウス号と同じといえるだろうか。
 そして、もうひとつ実は老朽化してかえられた木の板は実は保管してあって、それを別の場所でまた船の形に組み直したとする。この船(B号とする)はテセウス号といえないだろうか。
 

 以上がテセウスの船の問題である。

 パラドックスという言葉の意味についても考えておこう。パラドックスとはかなり広い意味で使われる言葉だが、ここでは一見間違ってないと思われる前提から、矛盾が導かれる、というようなことをいうと考えて良い。
 哲学的に有名パラドックスは例えば「飛ぶ矢は飛ばない」というものである。飛んでいる矢のある瞬間だけを切り取るとその時矢は飛んでいない。飛んでいないものをどれだけ集めても飛ばないのだから、矢は飛んでいないことになる。というようなものだ。

 テセウスの船は実際には矛盾が導かれたわけではない。これが元の船と同じといえるのどうか「わからない」という問題である。A号、B号ともに「テセウス号」であるとすると、同じ船が二つあることになり、これはやや矛盾といえるかもしれない。しかし「同じ名前の船」が二つあること自体はおかしなことではないので、これも矛盾とまでは言えない。

 テセウスの船、という話題が提示するもっとも重要な論点は、ここに矛盾があるかないかということ以上に

「同じである」ということがかなりアバウトな概念かもしれない、ということである。

板を何枚変えるまでは同じといえるのか、パーツが同じであれば同じといえるのか、名前が同じものはどうなのか、いずれにしても二つのものが時間を通して同じであるといえる根拠がかなり曖昧であることがこのことからわかる。


「同じである」ことが曖昧になると何が困るのだろうか。例えば今この文章をうっているMacbookは1分前とおなじMacbookである、と考えて僕は使用している。それを信じているからこそ、今書いているこの文が先ほどの文の続きになっていると信じて続きを書くことができる。しかし、これが同じかどうかはわからなくなれば、それは確証がない。
 人間は数年で体の分子がすべて入れ替わる、という話をきいたことがないだろうか。例えば5年ですべてが入れ替わったとしよう。もし、パーツが同じであることが「同じ人間」であることの根拠であるとしたら、僕はもう5年前の自分とは違う自分である。そうなると、例えば6年前に犯罪を犯した人間を、その罪で罰することは不当であるということになる。なぜならそのとき罪を犯した人間のパーツはすでにすべて入れ替わっていて、その人間は別人になっていることになるからである。そのようなことを認めないためには、(少なくとも人は)パーツが同じであることが「同じである」ことの基準ではないと考えなくてはならない。



さて、それではアイドルグループについて考えてみよう。


例えば、「モーニング娘。」は非常にわかりやすい例となっている。モーニング娘。は1997年に、中澤裕子、石黒彩、飯田圭織、安倍なつみ、福田明日香の5名のメンバーによってスタートする。結成の経緯などはともかくとして、この5名によるグループとしてまず最初に「モーニング娘。」というグループが定義されたことになる。このメンバーによって、「愛の種」「モーニングコーヒー」というシングルが発売されている。
 少なくともこの時点においては、モーニング娘。とはこの5人で、これらの楽曲を持ち曲としているアイドルグループである、という風に考えることができる。
 その後、1998年には保田圭、矢口真里、市井紗耶香の3名が加入する。この時点では8名によるアイドルグループが「モーニング娘。」である、といえる。実感としては、既存のグループに新たなメンバーが「参加」し、グループの人数が増えたと考えるのが普通だろう。このメンバーでも数枚のシングルが発売されている。その後1999年に最初のメンバーの一人である福田明日香が卒業する。この時点で、最初の5人のモーニング娘。とは少し形の違うものになっている。(しかし一方で、ここでいえることは、すでにこのグループは7人組になっているため、最初の5人から4人になったというような変化ともまた違う)
 その後、メンバーの増減が多数あったのは周知の事実だが、議論上の論点をいくつかあげておこう。2005年に飯田圭織が卒業し、この時点で最初期のメンバーが、全員いなくなったことになる。テセウスの船でいうところの、「すべての部品がいれかわった状態」である、といえるだろう。ちなみにその後すぐに矢口真里が脱退したため、第二期の追加メンバーも全員がいない状態になっている。(ただし、このとき矢口真里は「卒業」ではなく「脱退」扱いであるため、この違いについてテセウスの船の問題においてどのように捉えるべきなのか、という論点が存在しうる)
 さて、楽曲単位で考えてみよう。たとえばシングル「サマーナイトタウン」は最初の8人時代におけるシングルであり、この時点でのモーニング娘。にひもづけられることになる。しかし飯田圭織卒業後のシングル、例えば「色っぽい じれったい」をみると、ここの時点では最初期のメンバー5人全員の誰も含まれていない。つまり、この楽曲は少なくともリリース時の在籍メンバーという意味では最初に「モーニング娘。」であると定義された5人の誰にもひもづけられない、ということになる。


 哲学上の問題点を整理しよう。「モーニング娘。」がひとつの「同じ」アイドルグループである、というための根拠はなんだろうか。

1.メンバーの構成
2.名前
3.楽曲

などが考えられる。

まず
1.メンバーの構成、というのは前述通り、テセウスの船の問題で言えば、その部品が同じであることに「同じである」ことの根拠を求める考え方に近い。しかし、明らかにここではそのメンバーが時間を通じて入れ替わっていることが見て取れる。また、モーニング娘。に関して言えば、卒業メンバーによる「ドリームモーニング娘。」も存在するため、このメンバーを根拠にする場合(テセウスの船でいうところの部品を根拠にする場合)テセウスの船の問題と同様の「どちらが本当に同じものと言えるのか」という論点も存在しうる。

2.名前はどうだろうか。たしかに、「モーニング娘。」という名前を引き継いでいるという点では、これがこのグループの同一性の根拠であると考えるのはひとつ妥当なものであるといえるだろう。また現在ではモーニング娘。は名前のあとに’20などがその年毎につけられているため、これが厳密に同じ名前であるといえるのかには疑問がある。(このようなある時間的部分についての問題については後述する)

3.楽曲に根拠を見出すのは、哲学的には「性質」に同一性の根拠を見出す方法論に近いといえるだろう。モーニング娘。というのは「サマーナイトタウン」という楽曲を持ち曲としている、という性質をもつものとしてある一つのグループであることがいえる、というような考え方だ。
 しかしこれはいくつか奇妙な問題を、導いてしまう。前述したように例えば「サマーナイトタウン」は最初期の五人時代にはなかった楽曲である。であれば、この楽曲を持ち曲としている性質はその時期のモーニング娘。にはないことになる。
 また実はメンバーの構成というのも「性質」であると考えることも可能である。この場合もある時点であるメンバーが在籍していることを「グループの性質」であると考えることで、楽曲と同様の問題が提示される。
 これらについては、「一時的な性質」というものをどのようにとらえるのか、という論点から議論をする必要がある。


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これらの問題にこたえるための、簡易的な準備だてを考えよう。

まずは「時間的部分」というものを考える方法についてである。
D.Lewisの4次元主義的考え方に代表されるように、対象を4次元的にみる方法が考えられる。ここでは対象は4次元的に存在しているとされる。そして今いる私たちやそこにあるものは、それをある時点できりとった3次元的姿なのである。
 金太郎飴みたいなもので、金太郎飴全体を4次元空間での私たちであると考えると、金太郎飴をある場所できった断面が今の私たちというような感じである。

「モーニング娘。」という一本の金太郎飴があったとすると、ある場所でそれをきったときにあらわれる断面が、ある時期のモーニング娘。である。そしてそのときの金太郎飴の表情の違いが、メンバーの違いであったりとなるわけだ。この4次元の金太郎飴のようなものを哲学の議論では「4次元ワーム」とよぶ。4次元的にひろがったこのワームの時間的な断面が、現在の姿である。

この方法では、「同一性」の問題は非常に簡潔に説明される。つまり、いくつかのものが時間を通じて同一である(ある時点のAというものと、別の時点のA’というものが同一である)ということは同じひとつワームの断面であるということになるからだ。もう少し正確にいえば、そもそも存在しているのはただ唯一、この四次元に広がるワームの方であるといえる。「モーニング娘。」というひとつのワームがあったときに、ある時点での断面にはあるメンバーやある楽曲が含まれているし、そうでない断面には別のメンバーが含まれている。しかしこれらはあるひとつの「モーニング娘。」というワームに含まれているという意味で同一なのである。ここではそもそも同一であるかどうかということ自体が問題にならない。そこにはひとつの「四次元ワーム」しか存在しないからだ。この、ある断面は四次元ワームの「時間的部分」ということになる。例えば年号付きの表示はそのわかりやすい例であるといえるだろう。
 この考え方の問題点はいくつも考えられるが、この「部分」というのはひとつのポイントとなる。例えば、ある時間断面において「メンバー」や「楽曲」というのはあるグループの「部分」であると考えるのは自然であるが、これは時間的な部分とはどのような関係になると言えるのだろうか。


以降では、
この時間的部分という考え方が、アイドルグループの同一性に関してどの程度妥当なものであるかを検討することになる。

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