「作曲」と「編曲」は本当に違うのか


歌番組をみたり、カラオケなどにいったりすると普段意識していない人でも見かけるように、世の中に出回っているポップスや歌ものの音楽には

作詞者

作曲者

がいる。

例えば自分の関わったもので恐縮だが、
この曲は

作詞:ヤマモトショウ
作曲:宮野弦士

となっている。

作詞と作曲というのは、非常にわかりやすい区別であって、この歌の
「言葉」の部分をつくるのが作詞で、「メロディ」の部分をつくるのが作曲だ。これはどちらが先につくられたものであっても構わないし、あるいはひとりの人が同時につくることもありえるだろう。

ところで、このようなクリエイターの名前が書かれるところにはもう一つ、(特にCDなどの作品には)普通併記されているものがある。それが

編曲者

である。

「編曲」、あるいは「アレンジ」といわれるものは、簡単に言ってしまえば楽曲制作における「作詞」「作曲」以外のほぼすべての部分である。特に、楽器の構成や演奏される譜面(今は譜面ではなく、コンピューター上のプログラムを組むことがほとんどだけれど)などを決めて、制作するのが「編曲」の仕事である。

もちろん例えば歌ったりするのはシンガーの仕事であるし、実際に楽器を演奏するプレイヤーがいる場合も多いので、編曲者だけですべてが完結するわけではないが、現代の編曲家の一部はすべての演奏を自身で行う場合も多く、そう言った意味では編曲者によって楽曲のほとんどが完成しているといっても過言ではないだろう。
(実際上記の楽曲は編曲者である宮野くんによってほぼすべての録音がなされているし、僕も編曲をする際は全パートを自分で演奏することがほとんどだ。あるいは現在ではこの作業が「打ち込み」といわれるようなコンピュータ上のプラグラミングとして行われている)

このように、楽曲のクリエイティブは大きく分けて

「作詞」「作曲」「編曲」

の3パートにわかれていると考えられており、実際にクレジットなどにはそのように表記されていることが多い。


まず最初に、この3つに関する大きな違いを述べておこう。

これは、音楽制作者、特にプロのミュージシャンにとってはかなり肝心なところだと思われる。

クリエイターの対価は基本的には、それが創作物であるので「印税」という形で支払われることがほとんどである。
実際ミュージシャンもCDや配信、その他楽曲が使われた数に応じて印税収入を得ている。

しかしこれは「作詞」「作曲」だけにしか当てはまらない。逆に「編曲」は普通、音源ごとに音源の権利者(原盤権者など)から、編曲家に支払われる。

あるCDに収録される楽曲の編曲をしたら、
その一曲ごとにいくらというのが支払われて、それが何枚売れたか、どのくらいダウンロードされたかというのはその編曲者に支払われる額には関係ない。

(逆にいえば、普通作詞や作曲はそれ自体には支払われるものはなく、CDや配信などの形で世に出ない限りはクリエイターには一銭も支払われないことになるだろう)

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これが現状のルール、あるいは実際の運用だ。

しかし、ミュージシャン本人たち、あるいはその周辺の人たちもなんとなくこの住み分けがおかしいことに気づいている。

たしかに、
「作詞」は言葉、文、詩をつくるという意味でやや独立したものであるといえるだろう。
極論をいえば、作詞をしなくても音楽は成立する。ということは逆に、作詞というのは独立した作業なのだ。

しかし今、音楽を作るさいに「作曲」と「編曲」が独立しているということはあまり考えられない。
作曲をするひと、あるいは編曲をする人であれば今かなり多くの人がコンピュータで音楽を制作している。少なくとも、それらが最終的なアウトプットとして世にでる際はほぼ間違いなくコンピュータを通っている(これらのシステムをDAW、ダウ、デジタルオーディオワークステーションという。なぜか日本ではDTMという言葉もあるけれど)
特にいまの技術であればすべての楽器が自宅レベルの環境で録音、あるいは打ち込みなどを行うことが可能だ(といっても、それがプロフェッショナルの演奏・録音と同じレベルで行われるわけではない)

簡単に言えば、
かつてのワークフローはこんな感じだったといえる。

作詞家が詞をつくる

作曲家が(歌の)メロディをつくる(楽譜)

編曲家がアレンジの楽譜をつくる(楽器などをきめる)

実際にスタジオでプロが演奏してレコーディングする

しかし今はこんな感じだ

作詞家が詞をつくる

作曲家がデモをつくる

編曲家がアレンジを完成させる

必要があれば演奏をレコーディングする

*どちらも「詞先」といわれる詞が先にかかれるパターンを想定しているが、現在では普通詞は作曲や編曲より後にくることのほうが多い。実はこの「詞先」「曲先」の話題も、この作曲と編曲の問題から考えることができるので別の記事で扱う。

現代のワークフローでは、作曲家がデモをつくるというところが大きく変化しており、かつてであればメロディの楽譜だったところが楽曲のデモとなっている。これは前述のようにDAWによって、ひとつの音源として制作されることが多い。

ものすごくざっくりいえば、作曲者が作ったこのデモは普通にCDなどで聞くようなものと「データの上では」差はない。もちろん、クオリティは色々あり、そのまま発売できるようなレベルのデモもあれば、なんとなくピアノだけが入っているようなデモなど色々ある。しかし、普通そのデモをきいて判断する側の立場にたってみれば、そのクオリティが高いにこしたことはない。それに、作曲者がまわりに自分の意図(どのような曲調の楽曲にしたいか、テンポやリズム、コード感、楽器の構成など)を伝えようと知れば、そのデモはよりクオリティの高いものにならざるを得ない。

また、かなりきびしいことをいえば、これが当たり前になってきた今、譜面だけ(メロディだけ)をみて「これは名曲だ」と判断できる原盤制作者(レコード会社とか、プロデューサーとか)はほとんどいないだろう(正直譜面がまともによめない人も多い)。

しかしまあ実際にはそれは今、必要ないからできないわけでできないこと自体がもはや問題にならないということだ(それよりも色々な音楽をしっていたり、あるいは例えばDAWの知識があるほうが役に立つといえるのかもしれない)。かつての音源制作者は、ワークフローの2段目で判断しなければいけなかったのだから、譜面で判断できることは絶対条件になる。(まあもちろん、その場で演奏してもらったり、手段は他にもあっただろうけれど)

ということで、現在プロフェッショナルの作曲家のほとんどは実質的に「編曲」の作業も同時に行なっている。実際「作曲・編曲」がひとり、あるいは連名であってもセットで記載されているようなクレジットを見たことがある人は多いと思う。作曲と編曲が別という場合ももちろんあるが、その場合でも作曲者の意図が編曲に反映されないということはあまり考えられない。特に、アーティスト本人ではなくプロフェッショナルの作曲家であれば、「編曲」されたデモを制作するのはほとんど当然のことになっており、また編曲者もそれを聞いた上で編曲したり、フレーズや録音物などをそのまま使用することもあるだろう。

だから、現代においては「作曲」を「編曲」と別ものとして、切り離して考えるのはかなり難しい

ここまではかなり実務上の問題だが、もう少し本質的に音楽そのものの考え方として作曲と編曲を切り離すのも難しいといえる。
前述のとおり、作詞と作曲は印税が認められる、つまりもう少しざっくりいえば著作権からの収入が認められている。しかし編曲はそうではない。

では例えばこの曲をきいてみよう。


この曲をこの曲である、と判断している多くの理由はほとんどの人にとってイントロ(冒頭)の部分ではないだろうか。というか、それ以外知らない人もおおいかもしれない。
この曲において、この最も有名なこのイントロは先ほどまでの楽曲制作の説明においては「編曲」ということになる。このルールにしたがっていえば、この楽曲はこのイントロがなくてもこの楽曲である、ということになる。

しかしこれは端的に、我々が楽曲に対してもっているイメージと一致しない。

これらは例えば

「楽曲の同一性に関する問題」とも多いにリンクしている。つまり、何をもってその楽曲がその楽曲であるといえるのか、その基準に関する問題のことである。(哲学や、美学などに関心のある方にはこのこと自体が同一性問題とはいえないかもしれないけれど、実際的な問題はこういったレベルで現れることになることを確認しておくのは重要だろう)

このような例は枚挙にいとまがなく、どう考えてもその楽曲のもっとも本質的な部分、その楽曲をその楽曲たらしめている部分に、今「編曲」といわれている行為がしめている割合の大きさはまったく無視できないどころか、もっとも大きな部分であるといえる。誤解をおそれずにいえば、「編曲は作曲以上に作曲である」といえるようなレベルだ。

作詞家の視点からしても、作曲と編曲の境界線はかなり曖昧になっているといえる。例えば、編曲されたものに作詞をするという場合も多いがその際に、曲調ありきで作詞が行われることは意識的にせよ、無意識的にせよ間違いなくありえるといっていいだろう。例えば「ハモリ」をつくることは編曲者によるものだが、どの部分にハモが加えられているかによって、歌のイメージが変わるのだから当然歌詞もそこに影響される可能性がありうる。

以上のようなことを考えると、現在のように

「作曲」と「編曲」を常に分けて考えることはあまり、音楽制作の実際にあっているとはいえない。

これに対してもっとラディカルな対応は、表記上あるいはルール上も編曲をすべて作曲にクレジットすることだろう。(というか実際、作曲とはそういうものだと思っていた人も多いんではないだろうか)
こうしておけば、上記のようなズレは当然解消される。現代では「作曲者がひとり」というのがかなり減ってきていることもあり、たとえ作曲と編曲が実質的にはわかれていたとしてもその印税などの取り扱いは本人たち同士でその都度決めればいいことである。

この方法の問題点は、ひとつにはその配分の決め方が問題になるといえることだろう。より限定的な状況を考えると、たとえばこんな具合だ。
ワークフローの最終段階でレコーディングに参加したギタリストが、その場でおもいついた1秒ほどのフレーズを楽曲に追加したとする。それらは作曲者などの同意もあり、楽曲に採用されることになった。さて、この場合このギタリストは「編曲」ひいては「作曲」をしたということになるだろうか。

常識的な観点からすれば、これは作曲にはならない(また、現時点の意味でも「編曲」にもならないだろう)
しかし、そのワンフレーズが曲全体に利用されることになったとしたらどうだろうか。そのフレーズは1秒程度のものだが、曲の根幹をなすもっとも重要なフレーズと捉えられるかもしれない。こうなってくると、そう簡単にそれが「編曲」や「作曲」でない、と言い切ることはできない。

これらはまた同様に「同一性問題」でもあるといえる。つまり、ある空間的、あるいは時間的な幅をもったもの「どの部分までをもっていれば」そのものの本質、あるいは全体と同一視できるのかという問題である(例えばやぶれたお札は、その半分以上がのこっていれば、新しいお札と交換してもらうことでできるらしいが、そこでは「お札は半分以上あればお札であるといえる」という同一性の基準が採用されているということになる)

実は、前にも少し触れたように現代の制作の現場では
「コライティング」というスタイルが少なからず採用されている。

これは、複数人が楽曲制作に参加し、基本的にはいわゆる楽曲が完成するところまでをその数人で仕上げるというものである。この場合、だれがどのアイデアを出したとしても基本的に権利も責任もその参加者たちで等分されることになる。このスタイルはトラブルを回避するために採用されているわけではないが、あらかじめ参加者全員にそのような前提があれば少なくとも前述したような「同一性の問題」「だれがどこまでやったのかの境界の問題」はそもそもありえないことになる。

また、もちろん当然作曲や編曲をすべてひとりでやっているパターンでもこのような問題はおこりえない。

実は、このような問題意識がミュージシャンの中からおこりやすい(あるいは潜在的にくすぶっている)原因は以下のようなことにあると思われる。

それは、

「作詞」「作曲」に対して、「編曲」はクリエイティブであるという扱いがなされてない上に、実際には「編曲」が一番クリエイティブな作業でありかつ作業量が多い。

ということである。実際印税などの扱いをみれば、編曲の扱いが少なくとも「作詞」「作曲」と異なっているのは明らかだし、「何がクリエイティブか」というのは結論の出ない問題だとしても実際に編曲というのはかなりの作業量を伴う。
単純に考えてみても、現在のワークフローで言えば編曲者は「アレンジの制作」「楽器の演奏」(しかも複数の楽器を要求される)「レコーディング」などを行う必要がある。

何が大変か、というのはかなり主観的なものだが、「作詞」「作曲」「編曲」すべてをやる僕自身も「編曲」がどうしても一番実時間がかかるし、それはほとんど多くの人にとって間違いない事実だろう。
それに対して、現在は正当な扱いがなされていないのではないか、ということだ。

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